第3話 アレックスが決算を倒した頃ナヴァは鴨の羽根をむしっていた

「ご苦労様。今日の午後に目を通して、チェック済みデータを明日のお昼までに返送するわね」


 上司のアシュリーがそう言って微笑んだ。大人の女性の美しい笑みに胸が躍る。今までの苦労が報われたように思う。そうしてようやく自分の第一の務めが終わったという実感が湧いてくる。解放感で気持ちが舞い上がる。


 第五営業日をまるまる費やして作り上げた流動資産のデータが完成した。つい先ほど、社内ソフトで作った計算データと役員会議の資料用のエクセルデータをまとめて、アシュリーに社内メールで送信したのだ。

 彼女はメールを見てすぐアレックスのデスクにやって来て、カップコーヒーをプレゼントしてくれた。


「今回は難産だったようね」

「よりにもよって普通預金が合わなくて泣くかと思いました。遅くまで残業して計算し直して、アシュリーに無能だと思われないかひやひやしましたが」

「そうね、あなたにも定時に帰ってもらわないと課長の私のマネジメント能力が疑われてしまうわ。以後気をつけてちょうだい」

「はい、すみません」

「冗談よ」


 デスクに手を置きつつ、青い目を細める。


「で、メールに書いてあった半休のことだけど」


 胸まである緩いウェーブのハニーブロンドが揺れる。


「構わないわよ。あなたの今日の仕事はもう終わり」


 アレックスは本格的に立ち上がった。椅子から尻を浮かせながらパソコンをシャットダウンした。


「ありがとうございます! 帰ります!」

「お疲れ様」


 アシュリーが指先を振るのも確認せず、ビジネスバッグをひっつかんでオフィスを出た。


 経理部はビルの九階にある。さすがに一階まで駆け下りるのは現実的ではない。ホールに向かい、エレベーターの下向きのボタンを押した。

 エレベーターが来るのが待ち遠しい。もどかしい。一刻も早く地下鉄に乗りたい。


 やっと来た。


 ドアが開いた。


 中から一人の女性が出てきた。


 肩につく程度の長さで毛先を緩く巻いた栗色の髪に、緑色の瞳の女性だ。いつもは機嫌よく微笑んでいる少々童顔の可愛らしい面立ちは、今はなぜかあまり浮かない様子である。


「レベッカ?」


 彼女――レベッカが顔を上げた。


「あら、アレックス。あなたもう帰るの?」

「そう、流動資産のデータは揃ってアシュリーに提出できたから。それにちょっとどうしても一日でも早く役所に行かなきゃいけない用事があってね」

「そう、そっちは終わったんだ。いいなあ、わたしの方はまだまだだめそう。今日は何時に帰れるんだろう……さすがに落ち込むよ」


 うつむく。元気がない。連日の残業で疲れているようだ。言われてみれば普段は輝いて天使の輪を作っている栗色の髪が今日は少し乱れている。ぱっちりとした二重まぶたも重そうだ。


 レベッカは経理部の同僚で、互いに大学を出て新卒でこの会社に入った同期でもある。同い年であることもあり何かと助け合ってやってきた。


 だが今回に限ってアレックスは自分の仕事で手が離せず彼女の協力に回れなかった。


 彼女はこの数日アレックスよりも退社が遅いようだ。残業があまりにも多すぎる。アシュリーが目を光らせているという噂も聞いた。噂はしょせん噂だと思っていたが、こういう様子を見ていると本当かもしれない。アレックスを含む同僚たちに知られないようにレベッカを呼び出して説教をした可能性がある。


 彼女のフォローは本来労働契約の範囲外だ。同じ平社員であり彼女の上司ではないアレックスに責任はない。

 けれど胸は痛む。今までずっと手伝ってきたというのに、今回ばかりは見なかったことにして帰ろうとしている。


 アレックスはレベッカの力になりたかった。できれば彼女を守ってあげたかったし、欲を言えばプライベートでもそういう関係を築きたかった。


 しかし今はナヴァである。ナヴァを家から追い出して山に帰さなければ自宅に他の女性を呼べない。まずは役所の先住民生活支援課だ。


「ごめん、もっと話を聞いてあげたいけど、今日はお先に失礼するね! 明日以降できることがあるならするよ」


 レベッカが口を尖らせて「アシュリーが第五営業日の締め切り破りを見逃してくれるわけがないじゃない」と言う。そのとおりだ。第六営業日の明日では間に合っていない。レベッカは減俸レベルの扱いを受けるだろう。

 見ているアレックスもつらい。

 ついでに言うと、唇をつんと上向かせたレベッカはとても可愛い。


「まあいいけど。気をつけて帰ってね」

「うん、また明日」


 エレベーターに乗りながら「無事に乗り切ったら明日ランチを奢るよ!」と言った。レベッカがいつもの人懐っこい笑みを見せて「楽しみにしてる」と答えた。

 二人の間でドアが閉まった。




 帰宅すると、ナヴァが台所の流しで野鳥の羽をむしっていた。


「何それ! どこから持ってきたの!?」

「公園の池にいた鴨だ。獲ってきた」


 アレックスは震え上がった。まさか街中で狩りをしたのだろうか。そういえば彼女は弓矢を携帯していた。


「うまいぞ。元気が出る。食え」


 上機嫌で微笑む。これは微塵も自分の言動を疑っていない様子だ。


「信じられない! 勘弁して!」


 一刻も早くナヴァをどうにかしなければならない。

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