第2話 最初はひと晩だけのつもりだったんだ
アレックスがナヴァと出会ったのは昨日、日曜日の夕方のことだった。
いつも通勤で使っている地下鉄の駅の前に安売りスーパーがある。アレックスはここで頻繁に食品や日用品の買い物をしていた。平常時は仕事帰りに寄っているが、先週から四半期決算で忙殺されていて、明日も営業時間内に辿り着ける気がしない。したがって珍しく日曜日にわざわざ家を出て買い物に来たのだ。
買い物が済んだ後のことだ。
駅前を通りすがる人たちが何かを見てさりげなく観察したり無遠慮に立ち止まって眺めたりしているのを見掛けた。駅の改札前に何かがあるらしい。
日曜日で急ぎの用事はなかったアレックスも、人々が何に注目しているのか気になり、野次馬根性で覗き見てしまった。
そこに、一人の若い女性が立っていた。
長い銀髪に浅黒い肌の、革の民族衣装を着た、頬にチークのように赤い塗料を塗った女性だった。
自然のパガタだ。
この国の主要構成民族は三百年ほど前にヨーロッパから移住してきた人々の子孫だ。この国ではメジャーと呼ばれている。だいたいは明るい色の髪にブルーやグリーンの瞳をしており、手足がすらりと長い人が多い。
メジャーの入植まで、この地域にはパガタと自称する先住民だけが住んでいた。パガタは総じて浅黒い肌、銀髪に紫の瞳で、筋肉質の人が多い。
パガタとは彼らの言葉で戦士や狩人を表す言葉らしい。好戦的な狩猟民族だ。メジャーの入植当時はかなりの人がパガタの弓矢や槍に殺されたという。
銃の持ち込みにより優勢となったメジャーがパガタを駆逐したため、いつしかメジャーの入植地は発展した。父祖伝来の狩猟採集生活を望んだパガタは、森へ、草原へ、山へ逃れていった。
メジャーと同化することを選んだパガタは、メジャーのつくった街で暮らし始めたので、伝統的な暮らしを守る自然のパガタに対して、街のパガタと呼ばれるようになった。アレックスもその街のパガタの一人だ。
現在、自然のパガタは、メジャーの政府によって、特定の居留地で生活するよう定められている。政府が彼ら彼女らの伝統文化を保護することを約束し、彼ら彼女らに太古の自然の中で暮らし続けることを奨励したためだ。
田舎に行くと自然のパガタと遭遇することもあるらしい。だがこんな街中では珍しい。秋らしく濃い色の洋服を着たメジャーや街のパガタが行き交う中、彼女は非常に目立った。
彼女は少しうつむいて、周囲から向けられる視線とは目を合わせないようにしていた。筋肉質の肩を縮め込ませている。どことなく不安そうだった。
この街から一番近いパガタ居住区までは車で三時間ほどかかる。鉄道駅はない。
ひょっとして歩いてきたのだろうか。体力のある自然のパガタならやりかねない。
これから暗くなる。寒くもなる。
ひとりぽつんと立ち尽くす自然のパガタの娘――大きな目はまだ十代のようにも見えた。
アレックスは、つい、声を掛けてしまった。
彼女を可哀想だと思ったのだ。
――どうしたの? どこから来たの?
アレックスが問い掛けると、彼女は嬉しそうな顔をした。厚い唇から白く大きな歯が見えて、人懐っこい印象だった。
彼女は学校のライティングの授業で習う教科書のような英語を喋ってナヴァと名乗った。なんと山のパガタだという。この場合の山とは、この街から草原を越えて二百キロほどのところにある火山で、パガタの聖地とされている山のことを指す。五日間かけて歩いてきたそうだ。持参した食糧が尽き、街中では狩りもできず、空腹で途方に暮れていたらしい。
アレックスは彼女を連れて警察署に行った。警察に行けば保護されて元いた居留地に護送してもらえると思ったのだ。
甘かった。
――お嬢さんいくつ?
愛想の悪い、太ったメジャーの警察官が問い掛ける。
――二十歳だ。
ナヴァが答える。
――じゃあ未成年じゃないね。自己責任でしょ。
そう言って警察官は窓口から去ろうとした。
アレックスは慌てて窓口に身を乗り出した。
――山の居住区に送還しなくていいんですか?
警察官が溜息をつく。
――あのねえ、お兄さん。自然のパガタも人間だよ。大人なんだから、移動を制限するのは人権侵害でしょ。自分の意思で出てきたんなら街で好きに活動すればいい。
アレックスはショックだった。そうして性産業に従事する自然のパガタの若い女性が社会問題になっているのをネットニュースで見ていたからだ。
しかしこの警察官の言うとおり、ナヴァはもう二十歳で、自由意思を尊重されるべきである。
――平日の昼間に役所の先住民生活支援課に行ってくれ。生活保護やシェルターを申請できるから。
そう言って、警察官はナヴァに区役所への地図を渡した。
ここで放り出すのは冷たすぎる。ましてナヴァはアレックスに懐いて笑顔で街のパガタの生活についてあれこれ質問してくる。自然と情が湧いてしまう。
――とりあえず、うちに来る? ひと晩だけなら宿を提供してもいいよ。
気は進まなかった。妙齢の女性とひと晩自分の部屋で二人きり、というのは常識的ではない。紳士のすることではないのである。
だがアレックスにはこういう時に頼れる女性の友人知人はなく、すでに月が輝いている時間で、明日は決算の続きで絶対に休みを取れない。早急に何とかしなければならなかった。
――お前の家に行くのか? 結婚だな。
ナヴァはそう言って笑った。
アレックスは後悔した。
こんなことなら教会にでも預ければよかった、ということに気づくのは、翌日、つまり今日の仕事中だ。
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