第7話 私の家庭では正しいこと
スペイン風バルは盛況だった。この辺りのビジネスパーソンと思われる人々が大勢集まって騒がしくしている。誰も彼もが楽しそうだ。仕事終わりに一杯ひっかけるのは最高に愉快なので気持ちは分かる。
しかし今のアレックスは緊張していた。アシュリーがナヴァの何について話したいのか分からなかったからだ。
土曜日の帰り道、月明かりの下のナヴァの様子を思い出す。
雰囲気に呑まれて適当なことを言わないようにしなければならない。
二人は他の客席を掻き分けるようにしてカウンター席についた。
アシュリーは迷わずサングリアを頼んだ。アレックスは、メニュー表にスペインでは有名だと書かれていたので、エストレージャという銘柄のビールを飲むことにした。
「この一本を飲んだらすぐ帰りますね。ナヴァを一人で留守番させてるし、たぶん夕飯を作って待っていると思うので」
そう言うと、アシュリーは少し驚いた様子で「あら」と言った。
「連絡しなかったの?」
言われてから気づいた。
「なんならここに呼び出してもいいのよ。彼女、二十歳でしょう?」
「ナヴァとスマホやら何やらを持っているという話をしたことがなかったです。たぶん持っていないと思います」
「不便ね」
最初に区役所へ行った時になぜか自然とアレックスのスマートフォンの電話番号を書いたのを思い出した。アレックスはそれを当然のことのように思っていた。なぜだろう。自然のパガタに文明の機器が似合わない気がしていたからか。この国のどこに通信機器が普及していない地域があるというのか。
「帰ったら確認します」
縮こまったアレックスに気づいているのかいないのか、アシュリーがグラスに口をつけてから「そうしてちょうだい」と言う。
「で、ナヴァの話というのは……?」
おそるおそる問い掛けた。
予想外なことに、アシュリーは職場では見せないような柔らかい笑みを見せた。
「うちにナヴァを引き取らせていただけないかしら」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
硬直しているアレックスをよそに、アシュリーが語り続ける。
「土曜日、あなたたちと別れた後、両親と話をしたの。私は今両親と三人で生活しているのだけど、そこにナヴァを迎え入れられないかと思って。父も母もすぐ了承してくれたわ」
「ナヴァをアシュリーの家に住まわせるということですか?」
「そうよ」
330ミリリットルのビール瓶の首を握り締める。
「どうしてそんな、急に」
「早急に話を進める必要があると思ったのよ」
彼女は穏やかな笑顔でサングリアを飲んでいる。自然で平然とした笑顔だ。
「やっぱり結婚適齢期の男女がそういう関係ではないのに一緒に暮らしているというのは不自然だわ。ましてナヴァは自然のパガタよ。それなりの扱いを受けるべきなのよ」
「それなりの扱い、って?」
「大人が正しく導くということよ」
ナヴァの言葉が、脳内でリフレインする。
――愚かなパガタの女を導いてやらねばならぬと思っているのではないか。
「彼女はちゃんとしたところで保護されるべきだわ。メジャーの教育制度に則った教育を受けて、街のキリスト教文化に馴染む適切な倫理道徳を学ぶべきよ」
「ナヴァは、」
瓶を握る手に力がこもりすぎて、ともすれば割ってしまうのではないかと思った。
「自然のパガタとしてあるべき姿を身につけていますよ。彼女は何も学んでいないわけではないんです。山のパガタの巫女として、パガタにとって正しい精霊信仰を実践しているんです」
アレックスの反論に、アシュリーは驚いたようだ。グラスを置いて、アレックスの顔を見た。
止められなかった。
ナヴァが侮辱されたかのように感じてしまう。
「彼女は異教の高位のシャーマンですよ。俺たちがずかずか入っていくのは失礼ではありませんか」
少しの間、アシュリーは黙っていた。アレックスも、口を閉じて鼻でゆっくり呼吸をした。周りの喧騒は相も変わらず賑やかで、どこかのテーブル席の笑い声が響いている。
「――ごめんなさい」
アシュリーが言った。
「彼女の信仰を否定したいわけではないわ。ただ、これから街にいるつもりがあるなら、街の文化も身につけなければならないと思うの」
「それは、そうですけど。でもあなたの言い方を聞いているとメジャーが自然のパガタを啓蒙してやらないといけないみたいだ」
「そうね……、ごめんなさい」
ピンク色の綺麗な爪のついた指で、自らのこめかみを押さえる。
「嫌だわ。私、傲慢だったかしら」
その様子を見ていると、アレックスも少したじろいだ。
彼女はあくまで善意だ。彼女にはナヴァを否定する気など一切ない。
しかしアレックスは知っていた――押しつけの善意ほど厄介なものはない。彼女の慈愛からナヴァを守らなければならなかった。
「彼女は自分の意思で俺の家にいるので。まあ、確かに、アシュリーの言うとおり、他人に誤解を与える生活ですが」
「私にはなんだかストックホルム症候群のように見えたのよ」
それには答えらなかった。否定したいが、実際にアレックスの家に来たばかりの頃のナヴァはただひたすらアレックスの帰りを待ち続けるだけの孤独で閉鎖的な生活をしていた。自分にも非がある。
「でも……、そうね。私も軽率だったと思う」
深く、息を吐く。
「うち、教会なのよ」
初めて聞く話だった。
「父が牧師で、母も敬虔なクリスチャンで。私と弟はかなり厳しい教育を受けたわ。といっても、体罰や過度の叱責があったわけではないけれど――私は高校生になるまで父が世界で一番正しい人なんだと思っていたし、今でも父は聖職者として立派な人でキリスト者の正しい行ないを実践していると思ってる」
何となくアシュリーの生い立ちが想像できた。彼女は厳格な家庭で育って良くも悪くも潔癖なのだ。
「家のすぐ裏が教会なのよ。だから私は物心がつく前から信者の皆さんがうちに出入りするのを見ていたわ。だいたいが何らかの困難を抱えている人だった。そんな人々に対して両親がとても親切に接しているのを見てきた。時々娘の私が嫉妬するくらいにね」
「その中に、パガタもいたんですね」
「そういうことよ。私にとって、パガタは、救いと赦しが必要な、困難を抱えた人々だったのよ」
実際に街のパガタの貧困率は高い。学歴もメジャーに比べれば低く、収入の多い仕事についている人間は少ない。自殺率も高いと聞いたことがある。誰の目にも明らかな社会問題だ。
「貧しいパガタの家庭の子供を預かることぐらい何度もあったわ。ナヴァのことも同じように考えてしまっていたのね」
アレックスは余計に重い気持ちになってしまった。
アシュリーの善意は本物で、アシュリーの一家はまさしく慈善を行なっている。
それが必要な人間もこの世には確かに存在する。
ただ、ナヴァはそれを拒んでいる。
その線引きがどこにあるのか、アレックスには分からない。本当にナヴァにはそれが必要ないのかも分からない。
「正直に告白するわ」
彼女はそれ以上サングリアを飲まなかった。
「恥ずかしいことに、私はこの世に高等教育を受けてホワイトカラーとして就職するパガタはいないと思っていたのよ。だからあなたに出会った時とても驚いた。私はあなたのおかげで自分の中の偏見に気がついたわ。とはいえ、きっと苦労してここまでやって来たんでしょうね。心から尊敬している」
アレックスは苦笑した。
「俺がすごいんじゃなくて俺の親がすごかったんだと思いますけどね。おっしゃるとおり、うちの親はブルーカラーで、あまり裕福ではありません」
「愛ね」
そう言えてしまうことこそ彼女が愛情を注がれて育った証のように思えた。
「一応ナヴァにも話はしてみますよ。カードは多いに越したことはありませんから。でも、ナヴァが何と言うかまでは責任は持てません。俺は行けとも行くなとも言いませんよ」
「ありがとう。そうしてちょうだい」
そして「ただ」と続ける。
「それでも私は未婚の男女が一対一でというのは受け入れがたいわ」
それには、アレックスは頷いた。
「正直なところ俺も自分が正しいとは思っていないので、どうにかします」
アレックスの返事を聞いて安心したのだろうか。アシュリーが顔を上げた。
「今日はもう家に帰ろうかと思う。両親にも話さなければならないわ」
「お疲れ様です」
「でも最後に一個だけ言わせてちょうだい」
「何です?」
「ナヴァにスマホを買ってあげた方がいいわ。あなたを介さずにひとと連絡を取り合う手段を持たせた方がいい。何かあった時に電話をかけられるように――私にでも役所にでも警察にでも、もちろん、あなたにでも」
心から賛同して、「そうします」と答えた。
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