第8話 子ができたらわたしは山に帰る
「おかえりなさい!」
玄関のドアを開けると、今日もナヴァが飛びついてきた。
いつもなら引き剥がして押し退けるところだったが、今日のアレックスはそんな気分にならなかった。
ナヴァの頭に手を置き、撫でるように優しく叩いた。
ナヴァが目を真ん丸にして口をぽかんと開けてアレックスを見上げた。
「何だ? 何かあったのか?」
「いや、ちょっとアシュリーと話をしてて、あれやこれやと考えてしまった」
「アシュリーと?」
リビングに向かって歩き出す。ナヴァが小走りで後ろをついてくる。
「何の話だ?」
ソファに少し乱暴に腰を下ろした。
「アシュリーのおうちね、教会なんだって。で、行き場のない人に宿を提供することに慣れてるから、ナヴァも困ったら泊まりにおいでと伝えてほしい、と言われたよ」
引き取る、とまで言っていたことは伏せた。アシュリーとナヴァの間にこれ以上の軋轢を作りたくなかった。アレックスと結婚して子供を作る気でいるナヴァは反発するだろうと思ったのだ。
ソファに座っているアレックスの前で、ナヴァは床に膝をついた。上目遣いでアレックスを見上げる。
「お前はどう思う?」
「え?」
「お前は、私はアシュリーのところに行った方がいいか?」
問われて、唸った。
「結婚していない、する予定もない男女が二人きりで暮らすのはおかしくない?」
「そういう社会のルールはどうでもいいのだ」
「ずっと気になってたんだけど、自然のパガタはそういうものなの?」
「いや、自然のパガタにはそもそも一人暮らしや夫婦二人だけの生活というものがない。集落のすべてが親族でひとつの家族だ。壁などあってないも同然で、街のようなよそよそしい暮らしはしないのだ」
「なるほど」
ナヴァの大きな紫の瞳がアレックスをまっすぐ見つめている。
「もう一緒に暮らして一ヶ月になるのに、一度も触れてこない。こんなにくっついているのに、まったくそういう気持ちにならないなど、わたしの何がそんなに不満なのだ」
「ナヴァに不満というわけじゃないよ」
「では何が引っ掛かっている? やはり街の社会のルールか」
そして苦しげに言うのだ。
「ひとの目はわたしの気持ちより大事なのか……?」
そんな目を見ていると、責められているようでつらい。
次の言葉に悩んでいると、アレックスの回答を待たず、ナヴァが口を開いた。
「そこまで嫌なら結婚はしなくてもいい」
アレックスは目を丸くした。
「子種だけくれれば。子ができたらわたしは山に帰る」
思わず「それはもっとおかしいよ」と言ってしまった。声が少し大きくなってしまったかもしれない。だがナヴァはさほど動じた雰囲気ではない。
「わたしがいなければ――お前に迷惑をかけずに子を育てれば、お前は社会的には独身のままでいられるだろう?」
「そういうわけにはいかないよ、子供には親が必要だよ」
「ふるさとの山に帰れば祖母や兄夫婦がいるのだ。人手はたくさんある」
「でも住民登録をしてIDカードを作る必要がある」
「わたしはなくても二十歳まで育った。メジャーの政府の決めたことは自然のパガタに必ずしも必要ではない」
「分かったよ」
苛立って、つい、強い語調になった。
「はっきり言うよ、俺は見ず知らずの女性と子供を作りたくないんだよ。だから、迷惑なんだ」
一瞬、静かになった。
次の時、ナヴァの大きな紫の瞳から、ぼろぼろと大粒のしずくがこぼれ落ちた。
アレックスは胸が冷えた。
ナヴァが泣くのを見るのは初めてだった。
「ひと晩でもだめなのか」
浅黒い指の先で自分の目元を押さえる。
「なぜそこまで……男なのに。一度くらい抱いてやってもいいではないか」
自分がよほど酷い男であるように思えてきたが、その一度で彼女を放り出すようならもっと無責任な酷い男なのだ。ここは毅然とした態度を取らなければならない。
「それに、一ヶ月も一緒にいたのに。わたしはもう家族だと思っていた」
「たった一ヶ月同居しただけでしょう」
「でも、思い出が」
そこで一回しゃくりあげる。
「せめて、思い出が欲しい」
あまりにも切実そうで、聞いていてつらくなる。
「済んだらどこかへ行くから。山に帰るなり、アシュリーの家に行くなり、シェルターに入るなり」
「そんな扱い、女性に対して失礼では」
「どのみちお前がだめなら他の男に種をつけてもらわないといけない」
それは初めて聞く話だった。
上半身を背もたれから起こした。
「種をつけてもらわないといけない、って、どういう意味? 俺っていうんじゃなくて、子供が欲しいの?」
問い掛けると、彼女は我に返ったようだ。しばらくアレックスの顔を見つめていたが、ややして首を横に振って「何でもない」と言った。
「待って、そこをごまかさないで。教えてほしい」
前かがみになってナヴァに顔を近づける。
「どうしてそんなに子供が欲しいの?」
彼女はうつむいた。アレックスから視線を逸らした。
「言えない」
自分の服の腹をつかむ。
「山のパガタの特別な事情だ。街の人間に明かすわけにはいかない」
アシュリーに対して、ある事情で山にいられなくなって街に出てきた、と言っていたのを思い出した。あれは方便ではなかったのか。本当に何か重大な事情があってここにいるのか。
「そこを教えてほしい。夫婦なら隠し事はなしだよ」
ナヴァが「こういう時だけそんなことを言う!」と声を荒げる。
「わたしと子供を作る気がないのならば関係ないだろう」
「ここまで言っておいてそれを言う?」
「言いたくない。他人に話すことではないのだ」
そして「お前が家族になってくれるのならば話す」と付け足す。
「そこは、保留」
水掛け論になりそうだった。どちらかが妥協しない限り続くだろう。そしてどちらも譲れない信念の話になってしまった。
「分かった。とりあえず、俺がだめなら他の男のところに行くんだね?」
ナヴァは頷いた。
「街で、他の男を探す。わたしに種をつけてくれそうな男を」
路頭で今までアレックスにしてきたように子作りをねだるナヴァを想像した。目眩がした。あらゆる意味で異常だ。
「その考え方を改めるまではうちにいてほしい」
「改めるなどということは――」
「とにかくだめだ。それこそ警察に通報して売春か何かで捕まえてもらうからね」
アレックスは自分の額を押さえて「危険すぎる」と呟いた。行き場のない若いパガタの娘をどこかに連れ込んで孕ませる男、というのが、どうしても、悪魔だとしか思えない。それでも子供目当てについていくのかと思うと――そこまで割り切って冷淡に切り捨てることはできなかった。
ナヴァが「わたしはどうしたらいいのだ」と声を震わせた。
「子供を諦めることだけはできない……」
溜息をついた。
「今夜これ以上この話をしても無駄そうだね。やめようか」
彼女は納得したわけではないようだ。表情が不満だと訴えている。しかし彼女も不毛だと思ったらしく、「分かった」と答えた。
「明日だけど」
息を吸って、吐いてから、告げる。
「仕事から帰ったら、一緒に出掛けよう」
ナヴァが小首を傾げて「どこへ?」と問い掛ける。
「スマホの契約に行く。ナヴァもスマホを持った方がいいと思うから、買ってあげるよ」
途端、ナヴァの表情がぱっと明るくなった。
「嬉しい!」
勢いよく抱きついてきた。
この華奢で温かな体が性行為目当ての男の欲望に晒されることを思うと、アレックスは恐ろしくてたまらないのだ。
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