第3章 ジェニファーの場合
第1話 ひょっとして生活費がかかっているのでは
ナヴァはきちんと一人で区役所に行くことができた。昼間のうちにIDナンバーカードの受け取りに行き、無事に入手してきたのだ。これでようやく身分証明できるものが手に入った。
夕方駅前で待ち合わせをした。二人で携帯電話のショップに行き、ナヴァのためのスマートフォンを契約した。いつまでアレックスの家にいるのかは分からないが、本人の名義で契約したので、住所や請求先が変わっても使い続けることはできるだろう。
使用料はアレックスが負担することにした。もとよりそのつもりだったし、他にどうしようもなかった。格安プランに加入したこともあって、アレックスの収入ではそこまで過重な負担ではない。それよりナヴァと連絡を取れない不便やナヴァが他人と連絡を取り合うことを制限する罪悪感の方が重く、毎月少し金を払うだけで解決するならそれでよかった。
ナヴァは気になったらしい。
ショップを出るまでは神妙な顔をして黙っていた彼女だったが、自宅までの帰り道を歩き始めるとこんなことを言い出した。
「ひょっとして、わたしはお前に生活費を支払わせているのでは?」
「えっ、今気づいたの?」
ナヴァがショックそうな顔をした。
「事実上専業主婦だからね。いや、妻じゃないけど」
しかしショップの店員には関係を聞かれて面倒臭くなったアレックスはもはや開き直って「パートナーです」と答えていた。その瞬間だけナヴァは喜んでいたが、次から次へと書類が出てきたことで事の重大さに気がついたようである。
「いくらかかっている?」
「さあ。そんなにすごくかかってる気はしないけど。食費は、食材は二人分でも、ナヴァが料理してくれて外食が減ったから、なんだかんだ言ってとんとんの気がするし。あとは、来月になって今月分の電気代と水道代の請求明細が来ないことには分からないかな」
本当に平等にシェアをするのであれば家賃を折半にすべきだが、相当な額になるので、ナヴァは余計にショックを受けるだろう。もともと毎月支払っている固定費だ、いまさら半分負担してほしいとも思っていない。
「お前に払う義務はないのでは? わたしはまだ妻ではないのだから」
やっと分かってくれたらしい。アレックスは胸を撫で下ろした。
「特に理由なく養わせているということか」
「そういうことになるね」
「だからシェルターに行けと言っているのか?」
「いや、それは、経済的な理由じゃないけど……何だろう、人間として? シェルターに行けば無料で自立のための行政支援が受けられるはずだから――」
自分で言いながら、アレックスもまた気づいた。
「自立……」
ナヴァは経済的に自立していないのだ。だから極端に依存したいびつな関係が出来上がってしまったのだ。
「自立とは何だ? 一人で生活することか?」
「まあ、そうなると思うけど」
「自然のパガタは家族で支え合って暮らすものだ」
「街は核家族化が進んでいるからね。学校を卒業したらそれぞれ就職して収入を得るのが普通で――」
「収入とは金銭だろう? 山では、動物や鳥を狩り植物を収穫して、木材を切り出して家を造り、川で洗濯をするものだったので、金は、必要なかったのだ。だから馴染みがない」
原始的な狩猟採集民の生活だ。人間としての原点に帰った気分だ。
「電気も使い方は小学校で習った。山の集落には引かれていない」
「まあ、IDカードがないんじゃ契約のしようもないしね」
まるで発展途上国の話である。同じ国内の話とは思えなかった。
「電気や水道があることはとても楽なことだと思っていたが、その分金がかかるのだな……」
ナヴァはこのたび重大な発見をしたようである。
「わたしはどうやって払えばいい?」
「うーん、どうやってだろうね」
彼女は小学校しか出ていない。しかも貨幣経済に馴染みがない。普通に就職して収入を得ることができるとは思えなかった。
アレックスが真剣に考えていたところ、ナヴァが腕に抱きついてきた。
「からだで払う!」
「絶対言うと思ったよ」
「労働だ!」
「人権問題だよ」
彼女の柔らかい胸が腕に触れる。大きさとしては控えめだが、押し付けられては存在を感じざるを得なかった。
「俺だからここだけで済むんであって、悪い奴にそんなことを言ったら売り飛ばされるからね?」
「売り飛ばされるとは? どこに?」
「知らない男相手にからだを売るお店だよ。あるいはマフィアとかに目をつけられたら海外に奴隷として売られるのかもね、いつだったかそんなドキュメンタリーを見たことがあるよ」
しがみつき、腕に額を寄せながら、「怖い」と呟く。
「金のためだけに巫女の貴重な純潔を捨てるとは、精霊王の怒りに触れるぞ」
「待って、今すごい重大なこと言わなかった?」
「とにかくわたしには金銭による収入が必要であることが分かった。天の意思に反しない範囲で仕事を探さねばならないだろう」
顔を上げ、アレックスの顔を見る。
「仕事とはどこで探すものだ?」
目を逸らし、「うーん」と唸った。
「職業安定所か、アルバイト募集のフリーペーパーか」
「お前は今の仕事はどこで見つけた?」
「俺は大学を卒業する頃に学内の掲示板にばーっと貼り出された求人ポスターの中から何社か選んで受けたから、今のナヴァには適さないね」
そこで、ふと、学生時代に飲食店でアルバイトをしていたのを思い出した。
「あるいは、店先にアルバイト募集の貼り紙をしている店もあるよ。駅前をぶらついてそういう貼り紙を探してみるのはどう? 直接お店の雰囲気を見ることができるしね。それで、電話番号をメモして、後で帰宅してから今日買ったスマホでアポを取るための電話をかけるんだけど――その電話は俺が手伝うよ」
ナヴァが真顔で頷く。
「そうだな、昼間、お前が仕事に行っている間に探してみる」
「応援してるよ」
そしてぽつりと呟く。
「アシュリーにも洋服代を返したいと思っていたのだ。いつになるか分からないと思っていたが、働けばその日がぐっと近づきそうだな」
アレックスも頷いた。それで対等になれるのだろう。アシュリーほどの高収入なら小金の範疇だろうが、ナヴァの気持ちの問題だ。
「よし、決めた! わたしは働くぞ!」
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