第2話 初めての就職活動
ナヴァの職探しは難航した。
アレックスはもともと期待していない。気持ちの問題だ。彼女が経済的な自立を考えてくれればそれでいい。強いて言えばスマートフォンの通信料だけ払って自身のプライバシーを守ってほしいという程度で、食費や家賃といった生活の根幹にかかわる費用はこのまま払い続けてもよかった。何せアレックスも彼女に家事をさせているのである。家事代行サービスを頼めばもっとかさむ。主婦業の対価として衣食住くらい支払わねばなるまい。
本人は焦っているようだ。求人誌の募集がだいたい高卒以上だからだ。彼女は小学校しか出ていない。広く一般に募集している求人には彼女のシャーマンとしてのキャリアは役に立たなかった。
そうこうしているうちに月が変わってアレックスは月次決算である。四半期決算とは違うのでそこまでハードなわけではなかったが、レベッカがいなくなった分の穴を埋める新入社員はまだ来ない。
二、三日ほど退社が二十時を回った。それから地下鉄に乗って家に帰り、食事と入浴を済ませる頃には二十二時だ。胸は痛むがナヴァは放置するしかなかった。
ある時ナヴァは勇気を出して職業安定所に行ったらしい。
窓口の職員はナヴァに職業訓練を勧めた。アレックスはそのプログラムを受ければいいと言ったが、半年間座学に縛られる、というのは希望と違うとのことである。仕事で疲れていたアレックスは深く突っ込まずに彼女の気の済むようにさせようと思った。
金曜日、無事決算書が出揃い、定時に退社した。順調に行けば十八時頃自宅に帰りつけるだろう。
ナヴァの話をほとんど聞いてあげられなかったことの罪滅ぼしに、アレックスはケーキを買った。ナヴァは甘いものが好きなのだ。駅に近いケーキ屋でチョコレートタルトを購入した。
「ただいま」
玄関のドアを開けて、アレックスは驚いた。いつもなら飛び出てくるナヴァがそこにいなかったからだ。普段は野生動物並みの聴覚で鍵を開ける音を聞き分けているらしいが、今日は聞こえなかったのだろうか。
いぶかしみながら廊下を進む。
リビングから話し声が聞こえてきた。
誰かいるのだろうか。話し声はナヴァのものだけだが、誰と話しているのだろう。
おそるおそる中を覗く。
ナヴァはソファに膝を揃えて座っていた。緊張した面持ちだ。
左手で、左耳にスマートフォンを押し付けている。電話をしているのだ。
アレックスは感動した。買ってやったスマートフォンが役に立っているところを初めて見た。電子機器に懐疑的な上、二人でいる時はアレックスと話したがるので、彼女がアレックスの目の前でスマートフォンを使ったことはなかったのだ。
「――うん。分かった。明日の朝十時にお店。分かったぞ。大丈夫」
そして最後にぎこちなく「ヨロシクオネガイシマス」と付け足す。
話が終わったらしい。耳からスマートフォンを話し、画面を睨むように見た。人差し指を出し、二度三度となぞる。まだスワイプやタップに慣れないのである。
やっと完全に電話が切れて画面が真っ暗になってから、人の気配に気がついたらしい。ナヴァが振り返った。
「アレックス! おかえりなさい!」
先ほどまでの強張った表情とは一転して、嬉しそうな笑顔で飛びついてくる。ケーキがひっくり返らないようキッチンカウンターに箱を置いてから、アレックスは「ただいま」と言ってナヴァを受け止めた。
「誰と喋ってたか訊いてもいい?」
アレックスの胸に頬をすり寄せつつ、「明日の面接先だ」と答えた。
「面接? 仕事の?」
「そう! アルバイトとしての仕事!」
アレックスも一瞬胸を撫で下ろした。今まで面接までも辿り着くことなく電話口や書類の郵送の時点で断られていたのである。つい反射的に「よかったね」と言ってしまった。
言ってから考える。
逆に、最終学歴が小学校で、履歴書もろくに書けず、メジャーとは違うぎこちない英語を喋るナヴァを相手に採用面接をしてくれるところとは、いったいどんな職種だろう。
ナヴァの二の腕をつかんで、彼女の顔を見下ろした。
「変なところじゃないよね?」
怪しげなところかもしれない。過去の経歴を問わないということは、業務内容も非合法すれすれの可能性がある。それこそ、水商売だったらどうしようと思った。
ナヴァは笑顔で頷いた。
「大丈夫だ。アレックスも知っている店だ」
「どこ?」
「ジェーンのカフェ」
思わず指を鳴らして「それだ」と呟いた。区立公園近くの明るい大通りにある綺麗なカフェで、女性客が中心で、客層は悪くない。後ろ暗い話も聞いたことがない。ジェニファーはナヴァが自然のパガタでありアレックスと暮らしていることも知っている。
「最近駅の近くで従業員募集の貼り紙を貼っている店を探していたのだが、ジェーンのカフェにもあったのだ」
不慣れな指先でスマートフォンを操作する。写真画像を管理するアプリを開く。ジェニファーのカフェの店先の写真が出てくる。出入り口近くの大きなガラス窓に貼り紙があって、そこに確かにアルバイト募集と書かれていた。時給は少々安いが、飲食店ならチップを貰うことが前提だ、極端に条件が悪いとは思わない。
「ランチの時間が中心だそうだから、お前を送り出してから仕事に行って、お前が帰ってくる前に帰ってきて夕飯の支度をすることができる」
意識しているのかいないのか、主婦のパートタイムの考え方である。ますます人妻らしくなってきた。
「さっそく明日の朝面接に来てほしいと言われた」
「そっか、よかったね」
「お前も一緒に来てくれるか? 明日は土曜日で仕事は休みだろう?」
普通仕事の採用面接に同伴はありえないと思うが、ナヴァは街での通常の労働契約など知らないのだ。危なっかしい。ジェニファーがナヴァを騙すようなことはしないだろうが、念のためである。ジェニファーならいろいろと考慮した上で対応してくれる気がする。
「まあ、ジェーンの店だからね。普通はバイトの面接に保護者がついていくことはないんだけど、ジェーンだから特別に、俺もついていって彼女に挨拶しようかなと思う」
「やった!」
ついでにコーヒーの一杯でも飲んでもいいし、なんならナヴァとパンケーキでも食べてきてもいい。
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