第6話 レベッカの末路
ショッピングから四日後の水曜日のことだ。
午後三時頃、昼寝をしたい気持ちと戦うため、一回席を外して自販機スペースに向かった。
ブラックのコーヒーを入手して席に戻ると、パソコンのタスクバーにメールのアイコンが増えていた。社内メールが送られてきた合図だ。
開いてみた。
アシュリーだった。
『本来業務中にやり取りすべきことではありませんが、三時のティータイムのため少しだけ失礼。
今日の定時後、予定は空いていますか?
ナヴァの件で少し話ができたらと思うのですが。
よかったら駅の南口に新しくできたスペイン風バルに行きましょう。
返信を待っています。』
アレックスはつい顔を上げてしまった。連なるデスクの島の端にアシュリーの席があるのだ。
目が合った。
厳しい目つきで、右手で追い払う仕草をされた。
慌てて目を伏せる。
私用で、しかもナヴァの話だ。周囲では同僚たちが思い思いの午後三時を迎えている様子だが、基本的には静かである。聞かれたらまずい。彼女はそれを考慮して直接声を掛けることを避けたに違いない。その気遣いを察せずアシュリーの顔を見た自分は間抜けだった。
案の定目敏い奴がいる。
「おい、アレックス」
隣の席でアレックス同様にコーヒーを飲んでいた男が、椅子を回してアレックスの方を向いた。アレックスよりいくつか年上の、明るいブラウンの髪と瞳の彼は、この係の主任である。
「なんだか今アシュリーと意味深なやり取りをしたな? 見ちゃったよ」
目を逸らして「何でもないですよ」と呟く。しかし主任はさらに距離を詰めアレックスに耳打ちするような恰好で話を続ける。
「今度はアシュリーを狙っているのかい? 女をとっかえひっかえだな」
「人聞きの悪いことを言わないでください、それだと俺が遊んでいるようじゃないですか。遊ばれているのはいつも俺の方で、年に一回のペースで捨てられているので相手を入れ替えざるを得ないんですよ」
「君、女を見る目がないものな。いつも表面的に可愛いだけの性悪女に引っかかってる」
ショックだった。だが心当たりはある。客観的に見てもそうだったらしい。もっと早く言ってほしかったが、一応ここは職場で、同僚のプライベートに踏み込むのは行儀のいいことではない。
「アシュリーもやめておいた方がいいと思うね。いやアシュリーはいい女だと思うけど、あまりにも高嶺の花だ。しかも上司。面倒な関係になるぞ」
「そういうのじゃないですって……この前の土曜日に区立公園でランニング中の彼女にばったり出くわしたんです、その時の話で、お説教ですよ」
「ああ、君、公園の近くに住んでいるものな。あの公園は気をつけた方がいい、ビジネス街からも中央の官公庁からも一番近い郊外の大きな公園だし、ランナー向けのセンターがあってシャワーを浴びられるんだよ。ランニングに夢中の大物がうようよいる。いつ誰に遭遇するか分からない」
「道理でいつも人が走ってると思ったら……気をつけます」
そして、「ここだけの話」と囁く。
「レベッカの話だけどさ」
その名前が出てきて、アレックスは途端に緊張した。先々週のごたごたを思い出したからだ。二度と掘り返したくない記憶だった。
レベッカは、本来はアレックスの正面のデスクを使っているのだが、ここのところずっと不在だった。出勤してこないのだ。同僚のほとんどにあの醜態を知られている、働きにくいのだろう。
「このまま有給を使い切ったら退職することに決まったよ」
想像どおりではあった。
複雑な心境だった。
もうレベッカに会わなくて済む、という安堵感と、自分のせいで仕事を辞めるのか、という不安感が、ないまぜになる。
気持ちを整理する時間が必要そうだ。
「昨日の定時後にここに現れてね。君が――いや僕以外の全員が帰ったところで、彼女と二人きりで話をした」
「そうですか」
「とりあえず退職届を受け取ったよ。僕経由でアシュリーに提出した。レベッカはアシュリーには会いたくないと言っていてね。まあ、そりゃそうだ。本来は直接アシュリーに提出すべきなんだが、僕はここでバトルが始まっても嫌なのでレベッカのお願いを聞き入れた」
彼らしい態度だった。アシュリーがハードなら彼はソフトだ。下で働く人間からするとバランスが取れていてありがたい。
「彼女は二度とここに現れない」
アレックスは何も言わずにコーヒーを一口口に含んだ。
「同僚たちみんなが不愉快な思いをした。彼女がそうしなくても上層部は彼女にコンプライアンス違反という重罪で自主退社を促そうとしていたよ。だから、いいんじゃないかな」
そこまで語ると、彼はわざとらしく「さて、そろそろ働くか」と言って伸びをしながら離れていった。
アレックスもパソコンに向かった。
ひとつ、溜息をついた。
パソコンを見ると、アシュリーからのメールが開けっぱなしになっていた。
ナヴァの件で、話、とは何だろう。土曜日にすべて完結した気でいた。アレックスの知らないところでアシュリーとナヴァに何かあったのだろうか。二人で買い物をしている間ベンチでぼんやりしていたアレックスには詳しいことは分からない。
ナヴァも話したがらない。彼女にとっては、面白くない記憶なのだ。
しばらく悩んだ。
ナヴァが言っていたことをわざわざアシュリーに話すつもりはない。子供ではあるまいし、誰々ちゃんが誰々ちゃんを嫌いで、という話をするわけにはいかなかった。
だが、ナヴァをアシュリーから引き離したい気持ちもある。もしアシュリーがナヴァに用事があると言い出すようなら、やんわり断って、それとなくもう二度と会わないように仕向けたい。
たっぷり十分ほど悩んでから、返信した。
『大丈夫です。お供させてください。
17時30分に駅の南口でお待ちします。』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます