第5話 愚かで哀れなパガタ
大きな月が出ていた。今日は朝から晩まで気持ちのいい快晴だ。明日の朝はきっと冷えるだろう。そろそろエアコンの状態をチェックしなければならない。
アレックスは気分がよかった。アシュリーが案内してくれたビストロは食事もワインもおいしくて雰囲気がよかった。しかもアシュリーが全額払ってくれた。荷物持ちの苦労はあったが、総合的に見るといい休日だった気がしてきた。
しかし隣のナヴァはあまり浮かない表情だ。アシュリーと一緒にいた時はもう少し機嫌がよさそうに振る舞っていたのに、今は黙りこくって斜め下を見ていた。
二人で、駅から自宅までの道のりを歩く。
どこからか賑やかな笑い声が聞こえてくる。土曜日の夜だ、パーティをしているのだろう。
「ナヴァ?」
声を掛けてようやく、顔を上げた。留守を言い渡された子犬のような目をしている。
「あんまり好みじゃなかった?」
堅苦しい雰囲気の店ではなかった。むしろ適当な恰好で気軽に入れるリーズナブルな値段のビストロだ。だが一応フランス料理のプチコースではあった。
ナヴァはこういう食事も小学校の課外授業以来だったらしい。ナイフとフォークを使うのにも辺りを窺って手探りの様子を見せていた。
アレックスからすると少し可哀想にも思えたが、アシュリーは「何事も経験よ」と鷹揚に構えていた。
アシュリーの言うとおりだ。これから街で生きていく気があるなら知っておいた方がいいこともある。
アレックスは黙って見守っていた。アシュリーがあれやこれやと指導した。
ナヴァは首を横に振った。
「とてもおいしかった。牛のかたまり肉などそうそう食えるものではない」
「でも、楽しめなかった?」
「そうだな」
彼女はそこで「だが勘違いしないでほしい」と言った。
「確かに食事のマナーなどは難しいと思ったが、それは仕方がないことだ。むしろ、アレックスとアシュリーのおかげで今後公的な場でこういう食事が出た時の心構えができたように思う。とても感謝している。アシュリーの言うとおり、経験は何にも勝る」
目を逸らし、息を吐く。
「ただ……、アシュリーが苦手だ」
思わず「えっ」と呟いてしまった。
「仲が良さそうに見えたけど? 一緒に買い物をして、楽しそうだったじゃないか」
「どうやったらアシュリーが気を悪くしないかばかり考えていた」
ナヴァなりに気を遣ったのだろうか。意外だった。
「俺には一切遠慮なしなのに?」
彼女は素直に頷いた。
「お前は気さくで素直なところがあるからとても付き合いやすい」
驚いた。そんなポジティブな評価を受けているとは思っていなかった。ただ単純に最初に見た動くものを親だと思ってついてくる子ガモのような気持ちでついてきているわけではなかったのだ。
正直に言えば、少し嬉しかった。
だが、裏返せば、アシュリーはナヴァにとってそういう人間ではなかったということだ。
確かにアシュリーは厳格なところがある。発言は常に筋道が立っていて淀みが一切ない。おまけにポーカーフェイスだ。職場にはそんな彼女を怖いと言う人間がいないわけでもない。
しかし会話をすれば冗談は通じるし、ルール違反をしない限りはある程度寛容で、アレックスはそんなに付き合いにくい人間だとは思っていなかった。
まして今日のオフの彼女はオフィスにいる時より砕けていて、アレックスの目にナヴァの姉のように見えていた。
おまけに金払いがいい。上司として素晴らしい特質だ。
「アシュリーって怖い?」
首を傾げ、「少し違う」と答える。
「いいひとだと思う。悪い奴ではない。わたしが勝手に卑屈な気持ちになっているだけかもしれない」
「卑屈?」
天真爛漫に見えるナヴァとは結び付かない言葉に、アレックスはまたたいた。
「これはわたしの感覚の話だが」
腹の前に両手を持ってきて、左右の指と指を組み合わせる。
「アシュリーはおそらく自然のパガタを可哀想だと思っているのだ」
頭を殴られたようなショックを受けた。
「アシュリーと話していると、わたしは、自分が、教養のない、貧しい、抑圧された、弱い先住民の女である気がしてくる」
つい、立ち止まってしまった。
「きっと優しいのだろう。思いやりのあるメジャーなのだ。だから、愚かなパガタの女を導いてやらねばならぬと思っているのではないか」
三歩ほど前に進んでから、アレックスが隣にいないことに気づいたようだ。彼女も立ち止まって振り向いた。
「アレックス?」
紙袋の取っ手の紐を強く握り締める。
ナヴァに言われて初めて気づいた。
確かにアシュリーにはそういうところがある。
彼女は姉御肌で、人権問題に関心があって、弱者に対して寄り添う姿勢を見せる。それは美徳であり彼女の長所だと思っていた。
「すまない、わたしの言い方がきつかっただろうか? お前の仕事仲間を侮辱したと思われたくない、まずいと思ったらはっきり言ってほしい」
「いや……、ナヴァの言うことにも一理あるなと思って」
それを認めてしまうと、アレックスは自分の足元が崩れていく気がする。
アシュリーがアレックスに対して親切なのも、アレックスを愚かで哀れなパガタの男だと思っているからではないのか。メジャーばかりの職場で弱者であるアレックスを保護してやらなければならないという意識があるのではないか。
彼女がレベッカに厳しい態度を取ったのは、可哀想なパガタを守る正義の味方でいたいからではないのか。
怖い、と思った。
アシュリーの善意でプライドが傷つく。
「そう、アシュリーは、優しいよ。それでいて厳しい。弱い者いじめが嫌いな正義のヒーローだよ」
言いながら自分が落ち込むのを感じていた。
もうアシュリーと普通に会話ができる気がしない。
「ナヴァの話を聞くと、心当たりはたくさんあるよ」
ナヴァが心配そうな顔をして駆け寄ってきた。
「おかしなことを言ってしまったようだ。忘れてほしい。お前がアシュリーとぎくしゃくするのは見たくない」
「いや、いいんだ。ナヴァが気づいたことをもっと言ってほしい」
認めざるを得なかった。
自分は何にも分かっていないのだ。
実にラッキーな男で、世間知らずだったのだ。
ナヴァがうつむく。
「わたしはアシュリーが金を払うたび彼女に施しを受けている気持ちになってしまったのだな。しかし上に立つ者は気前がいい方がいいだろう。それは本来いいところなのだ。彼女は悪い奴ではない。なのにわたしは――」
街灯に虫が集まっている。
「民族衣装だと確かに目立ってしまって行動しにくいが、私はあの衣装に誇りをもっていたし、自然のパガタの代表者としてメジャーや街のパガタに自然のパガタの服の着方を見せるのは正しい行ないだと思っていた。ところがアシュリーはそれを脱いでメジャーの洋服を着ろと言う。メジャーに同化してアシュリーに近い人間になるのが善なのだ」
腕を伸ばした。
「ごめん」
強く抱き締めた。
彼女の背中を、撫でるように優しく叩いた。
心の底から詫びたかった。
完全にメジャー化したパガタであるアレックスも、民族衣装は特殊なもので、メジャーの洋服を着るのが正解だと思っていたのだ。
「本当にごめん」
ナヴァが腕の中で首を横に振る。
「とはいえメジャーに最適化された街で暮らすには不便が多かったからな。もう自然のパガタの代表者として振る舞わなくてもいい、というのは、肩の荷が下りたようにも思う」
そして、アレックスの頬にこめかみを寄せる。
「街で暮らすにはメジャーを装った方がいいのだ。お前は間違っていないぞ」
「ナヴァ……」
「お前のそういう素直なところが好きだ」
彼女は一度アレックスを抱き締めてから、「もう帰ろう」と言った。
「街は暖かいが、家にこもってゆっくりしたいと思う」
アレックスは頷いて、彼女を離した。
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