第8話 聖職者の犯罪

 カフェの方は木曜定休で営業していないが、その分店舗を利用したイベントを開催するので、ジェニファーは店にいて準備をしている、ということは分かっていた。


 今日は午前十時から海のパガタの工芸品を作るワークショップがあるとのことで、その前、九時頃に店に向かった。


 来なくてもいいと言ったのに、ナヴァはついてきた。自分のせいでアレックスとジェニファーが揉めるのを懸念しているようだ。

 彼女はどうしても大事にしたくないと言う。

 本当なら警察に行きたいところだというのに、他ならぬナヴァ本人が、嫌がっている。


 とりあえず先週分の給料を得て、今週分三日間働いた給料を振り込みにして、仕事を辞める、という段取りをつけてから考えることにした。弁護士に依頼して示談にして慰謝料を取る、というのが現実的な気がするが、どうだろう。泣き寝入りは悔しすぎる。


 何より一番嫌なのは、ナヴァが仕事を辞めることについて納得していないことだ。この状況でも続けたいと言う彼女の精神状態が心配だった。そこまでして金を稼ぐ意味とは何だろう。


 店の前に辿り着いた。

 ドアの内側にCLOSEという札がかかっているが、ブラインドは上がっていて、見た目は開店しているのと同じ状態になっていた。つまり、いる、ということだ。


「やはり帰ろう」


 ナヴァがアレックスのシャツの裾をつかむ。そんな彼女の手首を握り締めて、アレックスは「だめ」と答えた。


 ドアを開ける。ドアベルが鳴る。


「ジェーン、いる?」


 声を掛けるまでもなく、彼女はテーブル席付近にいた。手には文房具の入った箱を持っている。テーブルにイベントのための材料を並べていたらしい。


 左の手首に包帯を巻いていた。


 顔を上げ、笑顔で「おはよう」と言ってきた。彼女のその笑顔が怖い。ナヴァがここにいるというのに、いつもどおりなのだ。


「今日は定休日よ」

「だから来たんだ」


 店の真ん中に入っていく。ジェニファーと向き合う。


「昨日の夕方、何があったか、忘れた、とは言わせないよ」


 ところが彼女は予想外の行動に出た。

 左の手首を見せつけてきたのだ。


「全治二週間だよ」


 隣でナヴァが縮こまったのが分かった。


「でも訴えたりはしないから。街に適応できなくてそういう態度になってしまう子は多いの。よくある事件、そう、事故なの」


 まるでジェニファーの方が被害者で、寛大な態度をもって対応しているかのようだった。ナヴァの方が悪いかのような言い方である。


「気にしないで、明日も来て」

「いや、昨日限りで辞めさせてもらうよ」


 するとジェニファーは苦笑してアレックスを見た。


「前から気になってたんだけど、単刀直入に言わせてもらうね」


 アレックスは硬直した。


「あなたはナヴァの何なの?」


 回答できなかった。


「父親でもあるまいし、そうやってナヴァの行動を監督する理由は何? 彼女ももう成人してるし、働いてるんだから、彼女の自由意思に任せるべきだよね」


 そしてナヴァに向かって微笑むのだ。


「ナヴァはどうしたいの? アレックスに流されちゃだめだよ」


 うつむき、呟く。


「今日はもう帰りたいし、この話をしたくない。仕事は続けたい」


 ジェニファーが鬼の首を取ったように「ほらご覧なさい」と言う。


「彼女本人がこう言ってるんだよ」


 だがナヴァの表情は暗く、声は沈んでいる。言わされているように見えた。


「脅しみたいだね」

「どうしてそういうことを言うの?」

「彼女は君が無遠慮に体に触ってくると言っているんだけどさ。そういう職場環境で働き続けるのは不健康だし、言ってしまえばそうやって搾取しながら働かせ続けるのって奴隷労働みたいなものだよね」


 ジェニファーの顔から笑みが消えた。


「彼女は収入が欲しいんだから、雇用主に逆らえない。これは、分かっているよね? 君は圧倒的に立場が強くて、言うことを聞かせることができる」

「誤解だわ」


 そしてまた被害者みたいな顔をして訴える。


「私、ナヴァのことを愛しているの。レズビアンなのよ」


 ナヴァが首を横に振ってアレックスの後ろに隠れる。


「ナヴァは特にあなたとはそういう関係じゃないって言うじゃない? なら同じステージに立ってもいいはずだよね。まして、若い肉体を持て余して、可哀想に」

「同じステージじゃないでしょう」

「私が同性愛者だからそういう言い方をするんだよね? 差別だよ」

「問題をすり替えないでほしい。雇用者と被雇用者という立場の悪用だと思う」

「ナヴァはどう思うの? アレックスにばかり言わせないで」


 次の時だ。

 ナヴァが、拳を握り締めた。


「わたしは、嫌だ。ジェーンのことは好きだったけど、そういう好きではないから」


 やっと言えた。

 アレックスは胸を撫で下ろした。

 ジェニファーの方は火がついたようだ。


「こんなに愛してあげているのに!」


 声が大きくなる。


「わざわざここにいさせてあげて、お金まで払ってあげたのに、私を拒むというの?」


 正体が出た。


「私の保護下から出て行けるところがあると思わないでほしい。他に働ける場所がなくてここに来たのに、受け入れてあげた私にノーを突きつけるなんて!」


 ナヴァが下唇を噛み締める。


「自然のパガタなのに愛してあげたのよ。どうして返してくれないのよ」

「もういい」


 小声で「もう来ない」と呟くように言う。


「ここではわたしはそんなに弱い存在だったのだな」

「そうよ。だから私が守ってあげる。私はこれまで何人もの自然のパガタを救ってきたの」


 アレックスはあるニュース記事を思い出した。教会で牧師や神父といった聖職者が子供に性虐待を加えていた事件が去年一年間だけでも複数件発生した、という記事だ。

 聖人が愛や保護を振りかざして弱い立場の人間から搾取する。被害者は訴えられなくて発覚が遅くなる。これは氷山の一角で、似た事例はもっとたくさんあるはずだ、で締めくくられていた。


 ジェニファーも最初は善意だったのかもしれない。彼女の崇高な志がすべて嘘だったとは思わないのだ。


 しかしこうなってしまっては、その志はただの道具と化して、言い訳に過ぎなくて、暴力を助長する。


「――まあ、ジェーンも性根は差別主義者だということは分かったよ」


 そう言うと、彼女ははっとした様子で目を見開いた。


「続きは書面で。ここでこのまま話し合ってもらちが明かなさそうだから」


 ポケットに手を突っ込んだ。中からスマートフォンを取り出した。画面にはマイクのアイコンが表示されている。アレックスはそれをタップした。録音終了、の文字が出てきた。

 ジェニファーの顔が青ざめた。彼女も自分の発言に問題があるという自覚はあったようだ。


「さようなら。もう直接顔を合わせることはないだろうね」


 アレックスはそう言って踵を返した。

 ナヴァはまだ、右手を握り締めたまま、左手でアレックスのシャツの裾をつまんでいた。

 彼女の左手を取った。そして、軽く握った。引っ張って歩き出すよう促す。


 二人で店を出た。

 誰も何も言わなかった。ドアベルだけがむなしく鳴った。




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