第7話 事件発生

 日に日に衰弱していくナヴァを見ているとつらい。

 だが彼女は仕事中の具体的な失敗談を話すことはなかったし、むしろ客との交流について語っている時は楽しそうですらあって、それなりに充実している印象だった。純粋に気力体力の問題ではないか。それなら慣れるのを待つしかない。


 そう思っていた。


 もっと根掘り葉掘り聞き出そうとしなかったことを、アレックスは後悔した。



 事件は水曜日に起こった。



 晩秋の夕方は日が落ちるのも早い。月も半ばを過ぎた頃で暇だったアレックスは定時に上がり十八時ちょっと過ぎくらいに帰宅したが、辺りは真っ暗だった。


 部屋の中も真っ暗だった。


「ナヴァ?」


 明かりがついていない。


「いないの?」


 いつもなら顔を出して「おかえり」と言ってくれるナヴァの姿が見えない。


 真っ暗だった。


 この時間まで帰ってこない、というのは、今までなかったことだった。

 消えてしまった。何の連絡もなく、いなくなってしまった。


 胸の奥が冷えた。


 ナヴァが、いない。

 それがこんなにも大きな喪失感をもたらすとは思っていなかった。


 早とちりだったようだ。

 暗いリビングの真ん中で何かが動く気配があった。


 電気をつけた。

 部屋の中央で、ナヴァが玄関、つまりアレックスの方に背を向けて、床に座り込んでいた。


 一瞬ほっと胸を撫で下ろしたが、どうも様子がおかしい。


「どうしたの? 電気もつけずに」


 ようやくナヴァが振り返った。


 彼女の様子を見て、アレックスは、血の気が引くのを感じた。


 仕事の制服の白いワイシャツの前、ボタンが二つほど弾け飛んでいて、華奢な首筋、白い下着が見えていた。そしてその首には、意味深な赤い痕がふたつと、歯型と思われる半円形の痣がついていた。


 銀の長い髪が乱れ、目元は泣き過ぎたのか赤く腫れている。


 駆け寄り、彼女の目の前に膝をついた。


 彼女が腕を伸ばしてしがみついてきた。


 何が起きたのかは、明らかだった。


「誰にされた?」


 自分でも驚くほど低く鋭い声が出た。

 怒りだ。

 レベッカに侮辱された時も感じなかった強い怒りが、胸の奥から噴き上がってくる。


「どこで。何を?」


 ナヴァはアレックスの肩に額を押し付けたまま首を横に振った。


「言え」


 か細い声で「ごめんなさい」と囁く。


「ナヴァに怒ってるわけじゃない」

「でも――」


 消え入りそうな声だった。


「こわい」


 彼女がそんなことを言うのは、初めてのことだった。

 全身の血液が沸騰しそうになる。

 アレックスの方が深呼吸をして落ち着かなければならなかった。


「病院と警察に行こう」


 また、首を横に振る。


「大丈夫だ。上半身だけだから」


 つまり最悪の事態は免れて、妊娠や性病の危険からは逃れられたということか。

 だがよかったと言うことはできなかった。


「それでもこれ、噛まれたんでしょ。傷害で訴えることができるよ。診断書を書いてもらおう」


 それ以上に、彼女は怖い思いをしたのだ。

 許せなかった。

 こんな乱暴をした相手を殴り殺してやりたい。

 自分は温厚な方だと思っていた。こんなに激しい感情を持っているとはまったく思っていなかった。


 ナヴァがひどい目に遭った。


 罪悪感さえ頭をもたげた。彼女を一人にしなかったらこんなことは起こらなかったのではないか。しかし働かずに四六時中見張っていたら収入がなくなって彼女を養うこともできなくなる。


「相手はどんな奴?」


 ナヴァは再度首を横に振った。それが意味しているところを察することができなくて、アレックスは顔をしかめた。


「知らない人?」


 小声で「知っている人」と答える。


「どこで出会った人?」


 また沈黙する。


「ナヴァ。隠し事はなしだ」


 彼女の二の腕をつかんで、体から引き剥がす。真正面から向き合う。


 彼女は、うつむいた。

 聞き取れないほど小さな声で、何かを答えた。


「なに? もう一回」

「……ジェーン」


 何を言っているのか分からなかった。


 彼女の大きな紫の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。


「ジェーンが。させてほしいと言ってきて」


 意味不明だった。


「ジェーンって、カフェのオーナーの、ジェニファーのことだよね?」


 今度こそ、ナヴァは頷いた。


「待って。ジェーンは女性だよね」


 何度も頷きつつ、「だからわたしもおかしいと思って」と訴える。


「女なのに女に欲情するとは? なぜ? 子供を作れないのに意味が分からない。わたしには受け入れがたい」


 自然のパガタの生殖を中心とした男女観からは逸脱した行為だったのだろう。

 だがアレックスは知っている。世の中には同性に性的興奮を覚える人間もいる。女性を性の対象とする女性は存在するのだ。ジェニファーもそれに当てはまったということか。

 それだけなら何らおかしいことではなかったが、そういうことを他人に押し付け始めたら、男でも女でも断罪されるべきだ。


「おかしいではないか」


 ナヴァが泣きながら訴える。


「わたしは女なのに。女にこういうことをされて、わたしが何か悪いのかと」


 アレックスはナヴァの頭を撫でながら「そんなことないよ」と囁いた。


「ナヴァは何にも悪くない。性別は関係なく、こういうことは、性暴力だから。ナヴァは被害者なんだから、嫌な思いをして当然なんだよ」


 また、アレックスにしがみついてきた。


 しかし信じられなかった。聖人君子のようなジェニファーが、いつどうして豹変したのだろう。


「今日急にこんなことになったの?」


 すると意外にもナヴァは「違う」と答えた。


「勤め始めて数日……? かなり初めの頃から、なんだかやたらと距離が近いと思っていたが……、先週から、その……、尻や胸に触ってくるように……」


 アレックスは愕然とした。

 ナヴァがやたらと消耗していたのは、業務内容ではなく、ジェニファーのセクハラによるものだったのだ。

 セクハラ、などという範疇には収まらないかもしれない。強制わいせつだ。


「なんでもっと早く言わなかったの?」


 彼女がうつむく。


「恥ずかしかったから。女同士でおかしいと思ったのだ」


 もっと早く気づいてやればよかったと思うと悔しい。


「それに……、ジェーンに雇ってもらっている身で、給料も貰っているのに……嫌だと言って、金を貰えなくなるのも嫌で……」


 雇用主としての最大限の力を振るったわけである。


 ナヴァは震える声で続けた。


「突き飛ばしてしまった。怪我をさせたかもしれない」

「そういうの、正当防衛って言うんだよ」

「あと……、それから――」


 心臓を握り潰されたかのような痛みを感じる。


「先週分の給料、貰えなかった……」


 アレックスは、意識して自分を押さえつけ、あえて細く、深く、息を吐いた。


「明日、午前半休を取って俺が給料を取り立てに行くよ」




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