第9話 お前を誇りに思う
帰宅すると、またナヴァが「おかえりなさい」と言いながら飛び出してきた。玄関で真正面から抱きつかれる。もう半月ほど毎日こうなので慣れてきた。
「ごめん、今日本当に疲れたから、そっとしておいてほしい」
彼女を半ば無視するように強引に部屋の中へ進む。
はじめの一歩はしがみついていた彼女だったが、ただならぬ空気を感じたのか、回していた腕を解いて道を開けてくれた。
「帰りにサンドイッチ買ってきたから夕飯はこれで済ませてくれる? 俺はシャワー浴びて寝るね」
リビングのテーブルの上にファーストフードチェーンのロゴの入った紙袋を置く。
「お前は、夕飯は? 食べてきたのか?」
「俺は今夜はいいや」
「どうして? 食わないともたないぞ」
「もう寝るだけだから。明日の朝は食べるよ」
リビングのソファの上に寝転がる。シャワーもどうでもよくなった。「やっぱりシャワーも明日の朝起きてからにする」と宣言してワイシャツのボタンをはずそうとした。
ナヴァがこちらを眺めていた。
手を止めた。さすがに家族でも何でもない妙齢の女性の前で服を脱ぐのは紳士的ではないだろう。
顔を背け、背もたれの方を向き、右肩を下にして横向きになる。
ナヴァは何も言わなかった。珍しく黙っていた。背を向けているのでどんな表情で何をしているのかは見えない。けれど今日は構っている気分ではなかった。
ややして、ナヴァが歩き出す音がした。隣の寝室に入っていったようだ。
彼女がこの家に来てから、アレックスは寝室を彼女に貸し出して自分はリビングのソファで寝るようにしていた。女性である彼女をソファに寝かせるのは気が引けたのだ。それに最初はひと晩だけのつもりだった。彼女は最初のうちこそ一緒に寝ると言い張っていたが、アレックスも頑固なのでやがて諦めてひとりで寝室のベッドを使うようになった。
今日もこのままおとなしく寝てくれるものと思って、放置しようと思った。
しばらくして、戸の開閉音が聞こえてきた。
「着替えさせてやる」
仰向けになって彼女の方を向いた。
彼女はアレックスが寝間着にしているスウェットを抱えていた。
大きな紫色の瞳が、心配だ、と訴えている。
手が伸びてきた。アレックスはそれを振り払って「今日は本当に無理だって」と訴えた。ナヴァは「何もしない、着替えだけだ」と言う。
「妻は夫の着替えを手伝うものだ」
「召し使いじゃないんだからさ」
「男は弱い生き物だから女が世話を焼いてやらないといけないのだ」
あまりにも真剣に言うので、アレックスは笑ってしまった。
「仕事で何か嫌なことがあったのだな。わたしが味方になってやるぞ、安心しろ」
手放しでそんなことを言う彼女が眩しい。
「いいんだ、もう。何もかも、どうでも」
「そうか。忘れたいなら忘れるがいい、女は男の仕事について根掘り葉掘り聞かないものだからな」
「そんな、前時代的な」
「街では夫婦で仕事の話をするのか」
「そういう家庭もあるだろうね。でも、男とか女とかにかかわらず、嫌がっていることを根掘り葉掘り聞くことはないよ。夫婦の間でも最低限のマナーは守らないとね」
「確かに、そうだな。街の人間は何にも言ってくれない気がしていたが、無遠慮に話させてひとの傷口を広げるのは自然のパガタも好まない。家族だからといって何でも共有すべきだとは思わない」
そして、「だが」と続ける。
「話せば楽になることもある。わたしは何でも受け止めるぞ」
とても大事にされている気分になってきた。
そのうち、ナヴァは、テーブルの上にスウェットをたたんで置いた。代わりにいつもアレックスが使っているブランケットを持ってきて広げ、アレックスの体にかけた。
「おやすみ、アレックス。サンドイッチは半分だけいただこう」
彼女はいい子だ。野蛮人などではない。
込み上げてくるものがあって、恥ずかしくてまた背もたれの方を向いた。
彼女はそれ以上近づいてこなかった。紙袋を開ける音がした。サンドイッチを手に取っているのだろう。
「ナヴァ」
名を呼ぶと、「何だ?」と答えた。
「ナヴァは街で嫌な思いをしたことはない?」
「嫌な思い、とは?」
「たとえば、お前はパガタだからだめだ、みたいなことを言われたり、とか。そう……、パガタであることを理由に嫌がらせを受けたことはない?」
しばらく考えたようだった。即答はしなかった。
「そもそも山のパガタはめったに街に下りないからな。わたしは巫女だから特に山から出てはいけないと言われていた。だから街の人間との接点は限られていた。最近は街でお前と生活しているが、昼間一人で出歩いても、せいぜい伝統の服と化粧のせいでじろじろ見られるくらいだ」
それはアレックスもだった。最初にナヴァに興味を持ったのは彼女が民族衣装で駅前に立っていたからだ。彼女は不愉快だったのかと思うと申し訳なかった。
「街を歩いていると空気が悪いところは分かる、そういうところには入らない。お前に迷惑をかけるわけにはいかないので、興味を惹かれても控えている。そうすれば悪いことは起こらないのだ」
感心した。好戦的な民族だと聞いていたが、治安の悪いところで揉め事を起こすことは避けるのだ。
「街の人間の方が山に来ることはあった。困ったことがあった時、不幸なことが起こった時に、精霊の力を借りたり巫女の神託を聞いたりしたいと言って、わたしを頼ってくる。そういう連中はわたしを崇めることはあっても馬鹿にすることはないな」
「なるほどね……聖地のシャーマンだもんね、ナヴァはその筋の人間の間では有名人なのか……」
そこで、少し間が開いた。
「誰かにお前がパガタであることを理由に嫌なことをされたのだな」
彼女の声は冷静で、優しくも聞こえた。
「やり返したか?」
思わず起き上がった。
彼女の顔を見た。彼女は穏やかな表情をしている。
「何もしないよ、それこそ野蛮人じゃないか。この国は法治国家で復讐なんて認められない」
「自然のパガタも認めていない」
唇の端を持ち上げて、笑みを作った。
「耐えたのだな。お前は強い男だ。誇りに思う」
アレックスにはもはや何も言えなかった。彼女を抱き締めて礼を言いたかったが、夜、部屋に二人きり、という状況で触れ合うのはどうかと思ってやめた。
ふたたび彼女に背を向けて寝転がった。
彼女はアレックスの腕を優しく二度三度撫でるように叩くと、寝室へ引っ込んでいった。
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