第2話 彼女との生活に馴染んでいく

 帰りの地下鉄に乗り、車両内側のドアにもたれてひと息ついた。

 これでしばらくゆっくりしていられる。

 そう思い、コートのポケットからスマートフォンを出した。電源ボタンを軽く押して画面を明るくする。


 ショートメッセージを受信していることに気づいた。


 最初はナヴァかと思った。今日彼女は都立大学の研究室を訪問している。もしかしたら話が盛り上がって帰宅が遅くなるという連絡が来たのかもしれない。

 それならいいことだとアレックスは思う。彼女が家にいないことを喜んでいるわけではない。彼女が自分以外の人間と交流して街での交友関係が広がっていくことを健全だと思うのだ。


 ところがいざ開いてみて、アレックスは顔をしかめた。


『今年のクリスマスは何を食べたいですか? 友達とパーティ等予定があったらあらかじめ教えてください』


 田舎の母親からだった。


 まずい。完全に忘れていた。

 時はすでに十二月、いつもなら故郷へ帰るための特急列車の切符を買っている頃だ。

 ナヴァの滞在で非日常が日常になった結果、毎年の恒例行事が頭からすっぽ抜けていた。


 帰ってこい、でも、いつ帰ってくるのか、でもない。何を食べたいか、食事が不要の日はいつか――つまり母親はアレックスが帰ってくるのを前提に食事の支度をすると言っているのである。息子が帰ってくるかこないか、は彼女にとっては問題ではない。必ず帰ってくるものなのだ。


 ナヴァの顔を思い出した。

 彼女をひとり首都に残して自分は地方の実家に帰る。

 何が起こるのだろう。


 一瞬で今年の帰省はやめることを決意した。ナヴァがいる以上は自分も自宅を離れない方がいい。


 すぐに返信した。


『今年は帰れない。ごめんね』


 五分もせずに返信が返ってきた。


『ガールフレンドとの旅行以外の理由は認めません。まだホテルを予約していないなら実家に連れてきなさい。

 仕事のためなら絶対に帰ってきなさい』


 恐ろしい母親だ。


 だが彼女からしたら毎年必ず帰省していた一人息子が突然今年に限って帰らないと言っている方が不自然だろう。クリスマスは地元の幼馴染や従兄弟も一斉に帰省するので、アレックス自身が帰って古い仲間たちと年越しパーティをすることを楽しんでいた。その上母は敬虔なクリスチャンでクリスマス礼拝に家族揃って参加することを当然の行ないだと思っている。彼女にとっては二十七歳にして突然の反抗期である。


『ガールフレンドではないです』

『クリスマスは家族で過ごすものです。お嫁さんではないのなら親と過ごすべきです』


 返信が速すぎる。ものすごい反応速度だ。


『今地下鉄だからまた連絡するね』

『帰宅したら教えてください。電話します』


 かなり強引だ。


 アレックスは悩んだ。


 普段の母親はこんなに過保護な人ではない。一人っ子であることもあって可愛がられているとは思うが、進学も就職もほとんど口を出さず、特に就職してからは連絡してくることもまれになっていた。

 唯一の例外がクリスマスだ。彼女は、毎年クリスマスに帰省する限りは何をしてもいい、と言っているのだ。自分はその例外に踏み込もうとしているわけで、過去最大級の親不孝をしようとしている。


 またメッセージを受信した。母親から何か追加メッセージが来たのだろうか。


 少し鬱陶しく思いながら開いてみたら、今度はナヴァだった。


『トウェンティ・サイトの本屋を出た。今から駅に行く。帰る時間が一緒になると思う。北口改札で待つ』


 トウェンティ・サイトとは、いつかアシュリーと三人でショッピングに行ったファッションビルのことだ。六階がワンフロアまるまる使った少し大きな本屋なのだ。

 ナヴァは本を買ったのだろうか。

 成長、という言葉が脳内に浮かんだ。


『俺も今帰りの電車。一緒に帰ろう。待っていてほしい』


 すぐにOKの絵文字だけの返事が来た。可愛らしい。普段は堅苦しい口調で話すナヴァだが、こういうところはどこにでもいる普通の若い女性だ。心が温まる。


 ひとと待ち合わせをして一緒に帰宅する――いい生活だと思う。




 自宅最寄りの駅につくと、メッセージどおり北口にナヴァがいた。先日買ってあげたダウンベストを着て、左手に本屋のロゴが入った緑のビニール袋をさげている。


「ナヴァ」


 声を掛けると、顔を上げ、嬉しそうな表情を作った。


「おかえりなさい。お疲れ様」

「ナヴァもお疲れ様」

「遅くなったから夕飯の支度がまだ済んでいない。一緒に買い物をして帰ろう」

「いいよ、今日はどこかで食べて帰ろうよ」


 彼女が小さく笑って「やった」と呟く。


「何が食べたい?」

「イタリアン! パスタが食べたい」

「いいね、そうしよう」


 二人で繁華街の方へ向かって歩き出す。家とは反対方向だが少しくらいいいだろう。


「今日、大学はどうだった?」


 訊ねると、ナヴァは「楽しかった」と答えた。


「何か難しいことをするのかと思ったが、簡単なアンケートに答えて、研究室の教授や学生とおしゃべりをして終わった。あとはキャンパスを探検して過ごした」

「そう」

「それで、教授が高校生向けに書いたという本の話になったから、今度会う時までに読んでみようと思った」

「なるほど。だから本屋だったのか」


 一瞬そのまま流してしまいそうになった。


「え、今度があるの?」


 ナヴァは頷いた。


「たくさん聞きたいことがあるから一度に全部やらないと言っていた」


 アレックスは少し考えてしまった。


「ナヴァがモルモットにならないといいけど」

「モルモット? ねずみか?」

「研究材料、実験体にならないといいな、ということだよ」


 彼女が「ふむ」とうつむく。


「彼らから何か恐ろしいことをされることはないと思う。わたしも彼らに自分の故郷の風習について語るのはいいことだと思っている」


 今日一日で信頼関係ができたようだ。あまり急速に接近するのも危ういが、研究室の方も一度に踏み込み過ぎないよう配慮して次を計画したのかもしれない。

 もしかしたらしばらく通うことになるのかもしれない。


 心配もあったが、ナヴァに任せようと思った。彼女は自然のパガタの文化についてひとに語りたいのだ。その文化を研究している彼らとの利害は一致している。


「それに」


 彼女が少し口ごもるように言う。


「話したことで謝礼金を貰った。今日は五十ドルと交通費」


 彼女はあまり浮かない表情だが、アレックスとしてはむしろ安堵した。彼女を研究協力者として尊重しているからこその支払いだと思うからだ。


「ナヴァは有益で重要なことを話しているんだから、正当な対価だと思うよ」

「そうか。わたしは巫女として当然の義務を果たしているだけのつもりだったのだが」

「巫女だって何も食べずに暮らしていたわけじゃないでしょう? 山にいる時は何を収入源に暮らしてたの?」

「民からの供物として肉や木の実を捧げられていた」

「その供物と一緒じゃないかな、お金」


 そう言うと納得したのか、彼女は顔を上げて笑みを見せた。


 生活するには足りない額面だが、無収入よりはいい。しかも彼女の巫女としてのキャリアを活かした仕事だ。


「あと、今度の金曜の夜に教授主催で街で暮らす自然のパガタを集めてパーティをすると言っていた。皆研究室に情報を提供している協力者らしい。わたしも行ってもいいか?」

「いいよ、行っておいで。その日は俺も同僚と飲みに行こうかな」


 結局アレックスはその日の晩母親と電話する予定だったことを忘れてすっぽかした。





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