第3話 パーティの後、クリスマスの前

 明日からは週末で休日だ。金曜日の夜ほど解放感と爽快感に満ちた時間もない。


 アレックスたち経理部一行はすっかり馴染みの店となったスペイン風バルでさんざん飲み食いした。パエリアを分け合い、アヒージョを奪い合い、サングリアをピッチャーで数え切れないほど頼んだ。


 最後、締めの音頭を取ったアシュリーが言った。


 ――年度末決算まで残り一ヶ月を切ったので、みんな今のうちに羽を伸ばして英気を養っておきなさい。


 現実に引き戻され、一同は静まり返った。


 年度末決算とは、年が変わるとともに訪れる地獄だ。文字どおりの総決算で、一年間のすべてが降りかかってくる。気力と体力が物を言う、正気を保つことに全エネルギーを注入しなければならない繁忙期で、それが一月の頭から三月の株主総会までの三ヶ月間続く。いわゆるデスマーチだ。

 地獄であり、地獄であって、地獄なのだ。


 今のうちに休むしかない。


 ついでに言えば年度末で、一月の来年度スタートにはまた有給休暇が増える。消化する必要がある。

 例年はクリスマス前に一週間分休みを取ってクリスマス休暇と合わせ半月ほど帰省していた。

 今年はどうしよう。




 帰宅したのは二十一時過ぎだったが、部屋は電気がついていなかった。ドアを開けてすぐの玄関とそこからつながる廊下が真っ暗だった。


「ナヴァ、いないの?」


 返事がない。

 胸が冷える。


「ナヴァ……?」


 酔いが冷めていく。


 リビングに入り、部屋の電気をつけてから、思い出した。


 テーブルの上に、『図説パガタ史』というタイトルの本が置かれている。ナヴァが読んでいたものだ。


「そっか、今日研究室のパーティなんだっけ」


 そもそも彼女が留守にすると言うから自分も遊んできたのだった。忘れていた。


 独り言を言いながら荷物を放り投げ、コートとジャケットを脱ぎ捨て、ソファに横たわった。


 仰向けで寝転がったまま、テーブルに手を伸ばし、本を取る。ぱらぱらとめくるだけで特に読む気にはならない。そのうち自分の胸の上に伏せた。


 ナヴァがいないと静かだ。部屋の中のものは何ひとつ動かない。部屋の壁時計も電波時計で秒針すら音を立てなかった。


 三ヶ月前まではこれが当たり前だったのに、今は、落ち着かない。胸に去来する感情につける名前は思い浮かばない。


 ナヴァは今頃楽しく過ごしているのだろうか。何を食べているのだろう。友達はできただろうか。自然のパガタ出身者も大勢来ると言っていた。

 いいことだ。自分は彼女が自立して独立することを望んでいた。できれば出ていってもらいたいとも思っていた。この調子ではないのか。


「ナヴァ……」


 呼んでも返事はない。


 はしゃいだからか眠気がある。気持ちとしては楽しんでいたつもりだが、体力は削れたのかもしれない。シャワーを浴びる気にもならない。このまま眠ってしまおうか。


 ソファの上で寝返りを打ち、背もたれの方を向いた時だ。


 玄関のドアが開けられる音がした。


「ただいま!」


 ナヴァの声だ。


 彼女はすぐリビングに駆けてきた。ほんのり上気した頬をしている。機嫌が良さそうだ。


「お前の方が帰りが早かったのだな。待たせたか?」


 そしてダウンベストを脱ぎながら笑う。


「わたしがいなくて寂しかっただろう! これから月曜日の朝お前が出勤するまでずっと一緒だぞ」


 アレックスは笑った。

 無邪気な彼女が頼もしい。


 アレックスが否定しないので、彼女は驚いたようだった。目を丸くして歩み寄りながら「本当に寂しかったのか?」と問い掛けてくる。アレックスは何も答えなかった。


「楽しかった?」

「おう。たくさん知り合いができて、連絡先を交換した。どうやら毎月やっているそうなので、また来月行くぞ」

「そっか、そっか。そりゃよかった。ナヴァに街の友達が増えたらいいなと思っていたんだ」

「おお、そうだったのか。心配させたな」


 ソファのすぐ傍、床の上に座り込み、ソファの上に横たわったままのアレックスの胸に頬を擦り寄せる。「酒臭い」とは言うが、表情は楽しそうだ。本は背もたれとアレックスの体の間に落ちていった。


「今日は酔った勢いでえっちなことができるのでは?」

「しません」

「つまらない奴だ」


 アレックスのシャツのボタンを指先でもてあそびながら、「だがわたしは今日決意を新たにしたぞ」と言う。


「わたしはお前の子を産むからな。他の男ではなく、お前を選ぶのだ」


 今のアレックスはもはやそれを何とも思わなくなっていた。毎日のように言っているからかもしれない。何となく当たり前のことのように思われてきて、適当に「あっそう」と答えるにとどまった。


「まあ、その話は置いておいて。ナヴァにちょっと聞きたいんだけどさ」

「何だ?」

「ナヴァって実家に帰らないの?」


 彼女は上半身を起こした。大きな紫色の瞳を真ん丸にして、心外そうな顔をする。


「やはり帰った方がいいか」


 アレックスも慌てて上半身を起こした。


「追い返すつもりじゃなくて……、出ていけということじゃなくて、帰省というか、何というか、たまには一時帰宅してご家族に顔を見せようとは思わない?」


 胸を撫で下ろしたのか、「なんだ、そういうことか」と微笑む。


「山におばあさんとご兄弟がいるんじゃなかったっけ」

「そうだ。祖母と兄がいる」

「会わなくていいの? 心配してない?」


 首を傾げ、「どうだろうな」と呟く。


「だがいずれにせよ子供を作らないことには。産むと約束して出てきたのだから」


 その言葉が引っ掛かった。


「約束……?」


 アレックスが言うと、ナヴァは首を横に振った。そして飛びついてきた。


「ずっとアレックスと一緒にいたい! それで子供を作る! 山に帰っている間お前が他の女と子作りをしないか心配だ! だから帰らない!」


 大事なことをごまかされた気がする。


「あのさ、ナヴァ――」

「お前は? お前は自分の親に会いたいか?」


 はぐらかされたが、本来はその話題をしたかったのだ。


「そう、親がクリスマスに田舎に帰ってこいって言っててさ。毎年二週間くらい帰省してたんだけど、今年はどうしようかと思って」


 この家にナヴァを一人にしておけない、と言ったらまた話がややこしくなりそうなのでそこまでは口にしなかった。


 ナヴァは「いいではないか」と言った。


「わたしも一緒に行ってお前の親に挨拶するぞ」

「絶対やめて。本当にやめて」

「お前の親は心配しているのではないか」

「まあしてると思うけど、いろいろめんどくさいことになるから嫌だ」

「めんどくさい親なのか」


 問われて、少し考えた。


「いや、そんな仲が悪いとかじゃないけど。むしろ、心配されちゃうから、かな? 親にそんな負担かけたくないと言うか……、もういい加減大人なんだしいろいろ事後報告で済ませたいんだよ」


 彼女は頷いてくれた。


「だが親孝行はした方がいい。親もいつ死ぬか分からないからな」


 いつだか彼女の両親は死んだと言っていた。


「めんどくさい親なら捨て置けばいいと思うが、仲が悪いわけではないのなら会っておいた方がいいと思う」


 そしてはにかんだように微笑む。


「お前は親に大事にされて育ったのだろう。だからまっすぐな性格をしているのだ。わたしには分かるのだぞ」


 アレックスの方が照れた。心当たりはなくもないのだ。


「きちんと挨拶せねばな」

「だからやめてってば」


 堂々巡りになりそうだったので、強引に切り上げて「シャワー浴びよう」と言い立ち上がった。




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