第4話 怪しげなチケットを入手した
「これを見てくれ」
帰宅してまず一枚の紙片を差し出された。
受け取って眺める。
縦五センチ、横十センチほどのサイズの質の良さそうな紙に、舞台という単語と作品タイトル、日時、劇場名と座席番号がプリントされている。
「舞台? 何これ、お芝居? 観劇?」
ナヴァが頷く。
「出るから見に来てほしいと言われた。どのような内容かは知らないが」
場所は演劇の世界では非常に有名な劇場だ。観劇の趣味のないアレックスでも知っている、売れっ子俳優がシェイクスピアなどをやるところである。
作品タイトルも見覚えがある。おそらく地下鉄の車内に貼られているポスターだ。興味がなかったので詳細は覚えていないが、一応毎日見ているはずなので目には入っていたらしい。
つまり、かなりの俳優がかなりの監督でかなりの脚本の舞台をやる、ということだ。
「S席って書いてあるよ? たぶん舞台の真正面中央とかだよ。普通に買ったら百ドルくらいすると思うんだけど」
「そんなに高いのか」
「どこで手に入れたの?」
「大学の研究室で知り合った男がくれた」
深刻そうな顔をして、「ひょいとくれたから大したことはないと思っていた」と唸る。
彼女は今日も日中に都立大学のパガタ文化研究室に出掛けていた。
先週のパーティをきっかけに、街で暮らす自然のパガタの仲間が数人できた。その中の一人が舞台俳優ということか。
「しかも明後日じゃないか」
「そう。急だが、行ってもいいか?」
「それはいいんだけど……、ええ、何これ、怪しい……普通に暮らしていたら絶対手に入らないやつだよ」
「そうなのか……だんだんわたしも恐ろしくなってきた。よくもそんなものをあんな簡単に渡してきたものだ……」
「どんな役で出演してる人なの?」
その質問には、なぜかナヴァは押し黙った。想定外の沈黙にアレックスは驚いた。
「言うなと言うから、言わない。わたしも必要以上にお前を驚かせたくないし、もしかしたらこれからも研究室のパーティで会うかもしれないから、付き合うなと言われても困る」
「いや、そんなことは言わないよ。こんな怪しいチケットをこのタイミングでくれる役者って思うとちょっと引くけど――ちょっと距離を置いて付き合ってほしいなとは思うけど、俺はナヴァの交友関係にまで口を出すほど器の小さい男じゃないので」
「大丈夫だ、たぶん……おそらく……わたしも確信をもって言えるものではないが……芸能人という存在が何をしている生き物なのかよく分からないからな」
そして上目遣いでアレックスを見る。
「だが、金曜日に知り合って、またわたしに会いたいと言って今日強引にスケジュールを調整して来てくれたのだ」
急に声色が変わったので、アレックスは顔をしかめた。
彼女の紫の瞳が輝いている。
「どうしても、どうしても、わたしに仕事をしているところを見てほしいと言う」
「……ふうん、それが?」
「連絡先も交換した」
「そう。よかったね、友達ができて」
「男なのだ。お前と同い年で、背が高くて、元は草原のパガタの戦士の男なのだ」
「へえ。で?」
チケットを放り出し、アレックスのシャツの胸をつかんで引く。
「お前は! 間男の登場に! 動揺したりしないのか!」
「えっ、そういう話?」
揺さぶりながら訴えるように言う。
「わたしはこいつに求愛されているのだぞ? もっとこう、何か、あるだろう! 行くなとかお前は俺のものだとか!」
アレックスはきわめて冷静に「ないよ」と答えた。
「そもそも俺とナヴァは付き合ってないから浮気でも何でもないよ。ご自由にどうぞ」
ナヴァがシャツを離した。直後、即座に抱きついてきた。アレックスの首元に顔を埋めて「冷たい!」と叫ぶ。
「わたしがこの男のもとに行ってしまったらどうするのだ」
「お幸せに」
「嫌だ! わたしはお前の子供を産むのだ! この男の子供ではない!」
金曜日の夜のことを思い出した。あの時彼女は確かにアレックスの子を産むことについて決意を新たにしたと言っていた。パーティで男に言い寄られたから出た言葉だったのだ。他の男の子供を産むことを考えさせられたのだろう。
「いきなり芸能人というのは驚いたけど……交友関係が一気に広がったんだね」
「わたしは浮ついた世界に身を置く男など好かない」
舞台俳優という人気商売の男よりは大手企業の経理部に勤めるアレックスの方がはるかに生活が安定していそうだが、このような劇場の舞台に立てる男はとてつもなく収入が良さそうだ。ついでに、もしかしたら二枚目かもしれない。どちらの妻の方が愉快な人生を送れそうだろうか。
一瞬でもそんなことを考えた自分を恥ずかしく思った。ナヴァを振り切って「俺は先にシャワーを浴びようと思います」と告げた。
「まあ、でも、いいんじゃない? 結婚するとか子作りするとかは別にして、元自然のパガタでこういう舞台に立てる人って貴重だと思うから、交流しておいてもいいんじゃないかな。人脈は何にも替えがたいってよく言うじゃないか」
「それは、そうだが」
「いい人生経験だよ。めったに取れるチケットじゃないんだし、とりあえず観ておいでよ。どのみち平日の昼間じゃ俺は一緒にいられないから、時間を潰すつもりで行ってきたら?」
ナヴァが床に落ちたチケットを拾う。
「そうだな。芝居を観に行くだけならば子供はできない。あと、タダだ」
「そうそう、それでいいと思う」
唇を尖らせる。
「しかし残念だ……わたしがよその男のところに行くかもしれないと思ったら少しは嫉妬するかと思ったが」
「残念でしたね」
彼女の頭をぽんぽんと撫でるように優しく叩いた。
この時のアレックスは相手がどれほどの大物なのか想像していなかったのである。
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