第5話 初めてのお給料で一緒に出掛けよう

 何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、翌朝のナヴァはいつもどおりで、意識している自分が馬鹿らしかった。

 普段どおりに朝食を食べ、着替え、出勤する。

 アレックスはそうしてナヴァから離れられることに安堵しているというのに、彼女は今頃何を思っているのだろう。


 これまでも極端に接触してくることはあった。けれどああいう直接的な行為に出たことはなかった。どうして急にああいうことをしたのか。


 もっと言うと、彼女がこういう行為を知っていることに驚いた。彼女の言うことを信じるなら、彼女は性体験がないはずである。街に来てから、どこかで覚えてきたのだろうか。

 働き始めたからだろうか。街の人間との交流が増えた結果誰かが性知識を吹き込んだのだろうか。

 そうであれば制限はできない。そうでなくても制限する権利はない。冷静に考えて二十歳のナヴァがそういう知識に触れる機会を持てないというのも不自然なことで、抵抗を感じるアレックスの方が潔癖なのかもしれない。

 あるいは、自分は女性に純潔を求めるような卑しい男だったのだろうか。


 そんなことを考えているうちにコーヒーをこぼした。間一髪パソコンにかかることはなくふたたびプリントアウトすることが可能な書類が数枚犠牲になった程度だが、いつもはやらないミスに落ち込んだ。


「おいおい、恋煩いかい?」


 主任が椅子をくるくる回しながら訊いてくる。

 アレックスの口をついて出てきたのはこんな返事だった。


「はあ、どうでしょうね。いったい何なんでしょうね、この関係」


 主任のみならず貸借対照表係の全員の視線がアレックスに集中した。

 言ってから余計だったことに気づき頭を抱えてさらに深く落ち込んだ。


「今夜辺りちょっと飲みに行かないか?」

「面白がってるでしょ。遠慮します」


 アシュリーが「何の話題?」と訊いてきたので、全員が黙ってパソコンに向かった。解散だ。




 ところが帰宅するとナヴァはハイテンションでくっついてくるのだ。


「初任給だー!」


 言われてから思い出した。今日は水曜日で、先週一週間分の給料を手にしたのだ。それ以前にもちょこちょことチップとして貰った小遣い程度の額を持ち帰ってきたことはあったが、基本給はそこそこまとまった額になっているはずである。


「へえ、よかったね。おめでとう」


 彼女の嬉しそうな顔を見ているといろんなことを忘れてしまう。アレックスは素直にそう言った。


「つらく苦しい時間を切り売りしたかいがあった」

「そんなにしんどい仕事なの? ジェーンがフォローしてくれてるんじゃなかったの?」


 その質問には彼女は答えなかった。


 給料袋と書かれた封筒を開け、中に入っていた紙片を広げて見せた。給与明細、と書かれている。大した額面ではない。けれど今までのチップやアレックスがコンビニやスーパーで買い物できる程度に渡していた小遣いに比べると格段に多い金額で、彼女からしたら大金だろう。


「いや、見せなくていいよ。収入はナヴァのプライバシーにかかわるところだから」

「夫婦は生計をともにするのではないのか」

「夫婦だったらね? 夫婦だったら家計のためにお互いの収入を把握しておく必要はあるかもしれないけどね? 夫婦じゃないからね?」

「まだ粘るか」


 テーブルの上に給料袋の中身を広げる。紙幣と小銭が出てくる。それを眺めて一人で笑っている。気持ちはよく分かる、自分も大学生の時初めてのバイト代ではしゃいだし、この会社に就職して最初の給料で調子に乗って高い腕時計を買った。


「これで今月のスマホにかかるは払える」


 せっかくの初任給を生活費に充ててしまうのも可哀想な気がする。


「いや、遊んでくれば? 今月分の請求が来るのは来月だし、初めてのお給料なんだからぱーっと使っちゃいなよ」

「遊ぶ、とは」

「電車で遠出したり、カラオケボックスに行ったり、値の張るおいしいものを食べたり、いろいろ」


 ナヴァが大きな紫の瞳を真ん丸にする。


「どれもわたし一人ではつまらない。お前が付き合ってくれないとだめだ」


 複雑な心境だ。何でも一人で行け、と言いたい気持ちと、確かに一人でレストランやカフェに入るのに気が引けるのは分かるという気持ちと、ついでに、大事な初任給で一緒の時間を持とうとすることについて多少の嬉しさもあった。


「じゃあ、週末二人でどこかに出掛けよう」


 ナヴァが「やった」と言ってガッツポーズをした。


「どこか行きたいところはある?」


 珍しく、彼女はピンポイントで答えた。


「映画館!」

「映画館? 映画を見たいの?」

「客に聞いたのだ、大きな画面で見るともっと刺激的で面白いぞ、と」


 映画自体は毎晩見ていたので好きなのは知っている。しかし確かに映画館の大きなスクリーンは体験したことがなさそうだ。


「いいよ、行こうか。この前アシュリーと買い物に行ったあの辺に大きなシネコンがあるんだ」


 ナヴァが大きく頷く。


「何か見たいのはある?」


 これもまた珍しく、彼女からタイトルを口にした。


「『バトル・オブ・ドーン』という映画がいいらしい」


 先週封切りされたアクション映画だ。週間ランキングで観客動員数一位だったはずである。豪華な俳優陣、派手な立ち回り、最新鋭のCG、万単位のエキストラを使った草原での大規模なロケ、いろいろな触れ込みで宣伝されている。ナヴァが好きそうだ。


「じゃあ、それに行こうか。何時の上映がいいかな」


 スマートフォンで映画館の公式サイトを開いて上映時刻をチェックした。ナヴァは終始楽しそうな顔をしていた。




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