第4話 お疲れモードのナヴァの暴走

 ここのところのナヴァはぐったりしている。仕事で疲れているようだ。一日に何時間も歩き回れるほどの体力をもつ彼女が、五時間で、それも途中で一時間の休憩があるはずなのにここまで消耗するとは、と思うと意外だったが、彼女自身が語ったことには、以下のとおりである。


「一番疲れるのは客に対して下手に出なければならないことだ。客の要望を聞いて確実に応えなければならない。わたしは巫女としていつも崇められている方だったから、常に笑顔でいる、他人に呼び出されて話を聞く、食べ物に直接触れないようにする、メニューを間違えてはいけない――そういったことに気を配らなければならないのに心がすり減ってしまう」


 ナヴァからしたら馴染みのない文化だ。山にいた時には想像もしなかった労働に従事しているわけである。肉体的な疲労より精神的な疲労の方が大きいようだ。


 しかしそれが街のサービス業だ。


 アレックスは口を出さないようにしていた。彼女が決めたことで、アレックスは直接自分の目で見ていないことだ。上から目線であれこれ述べることは簡単だが、彼女が自分で体験して身につけていくところを尊重したいと思った。


 家事をするために夕方で退勤して帰宅することになっていたにもかかわらず、彼女は夕飯の支度をしなくなってしまった。洗濯物を取り込んで力尽きている。

 しかしそれについてもアレックスは何も言わなかった。就職したてはそういうものだ。むしろ今までやらせていたのが不自然だったのである。アレックスが帰宅してから料理をしたり出来合いのものを買ってきたりして対応した。


 夜眠くなるのも早くなったようなので、二人で映画を見る習慣もなくなった。

 ナヴァをとっとと寝室に追いやる。アレックス自身もナヴァがいない静けさに手持ち無沙汰な感覚があって結局早寝をする。そんな日々が続いた。


 日曜日の夜、翌日仕事なのを思い出して、むずがってくだをまく。良くも悪くもすっかり街のパガタだった。




 火曜日の夜のことだ。


 二人は今日も出前のピザを食べていた。二人ソファに座って横に並び、テレビでニュースを垂れ流している。

 重苦しい国際ニュースが終わる。国内政治のニュースになる。やはり重苦しい。見ていて疲れる。寝て起きてから明日の朝通勤電車の中でネットニュースの興味のある記事だけを読めばいいと思うが、短い食事の時間、慌ただしい家事の時間を考えると、話題が細切れで連なっているニュースもまた一種の娯楽だ。だが疲れるための娯楽とはいったい何なのだろう。


 ぱっと遊びに行きたい。しかし今日は火曜日で、一週間はまだ半分も終わっていない。


 今度の週末は何をしよう。


 ナヴァとジェニファーの影響で自然のパガタの生活に興味が出てきたので、社会科学系のミュージアムに行ってもいい気もする。職場から歩いていける距離にあるのに一回も入ったことのない国立博物館はどうか。ナヴァを連れていって感想を聞いてみようか。実際につい二ヶ月前まで自然のパガタとして暮らしていた彼女なら何か特別な感想を抱くかもしれない。


 そんなことをつらつら考えていた時だ。


 急にナヴァがもたれかかってきて、アレックスの肩に頭をのせた。


 食べ終わったのだろうか。


 横を向いて彼女の顔を見ようとした。


 彼女が右手を伸ばした。そしてアレックスがピザを持っている右手をつかんだ。

 引っ張って、強引に自分の口元に持っていく。アレックスの食べかけを口に入れる。


「まだあるでしょ、なんでひとのもの食べようとするの」


 しかし彼女はピザを食べるだけでは満足しなかった。ピザがなくなってもアレックスの手を離さなかった。


 太く長い人差し指に唇を寄せる。


 白い歯列の間から、赤い舌が覗く。


 油で濡れた指先に、柔らかく生温かい舌が触れた。

 ねっとりと指を包み込みつつ、唇もつける。

 薄い粘膜が、皮膚をなぞる。


 背筋を何かが駆け上がる。だがそれはけして不快感ではなかった。


 ゆっくり、焦らすような速度で、指先を口に含む。

 湿った肉に、包み込まれる。


 長い銀色の睫毛が伏せられている。紫色の瞳が潤んで熱っぽい。


 彼女の薄紅色の唇が、自分の指を呑み込んでいく。


 無意識のうちに指を動かしてしまった。彼女の上顎をなぞった。


「ん……」


 鼻にかかった声が艶っぽい。


 自然と脈が早まる。


 右手をそのまま、体を傾けて、左手を伸ばそうとした。

 彼女に触れようとした。


 ところが、


「赤ちゃんが欲しい」


 彼女のその言葉を聞いた瞬間、我に返った。

 口から指を引き抜いた。


「もう寝なさい」


 哀れっぽく声を震わせて「どうして」と問い掛ける。その声はまさしく女のもので、今度こそ不快感で背中が震えた。


「だめだって言ってるしょう。そういうことの強要は暴力だよ」

「だがもうすぐ二ヶ月だろう? お前はわたしにそういう興味はないのか」


 それを言われると言葉に詰まった。一拍間を置いてから目を逸らして「ないよ」と答えた。今のあの興奮は何だったのだろうと思うと心苦しい。自分は何をしようとしていたのだろう。


 ナヴァの手がアレックスの部屋着の胸をつかむ。


「欲望を解消したらいい。わたしは受け止める。わたしが慰めてやろう」

「自分を大事にしなさい」

「大事にしている」


 そして熱っぽい瞳で見上げてくるのだ。


「お前にわたしの純潔を捧げたい。それが今のわたしがお前に与えられるすべてだ」


 シャンプーの香りがする長い髪、薄いTシャツに守られた華奢な肩とささやかなふくらみ、引き締まった長い手足――それらは確かに女性のものだ。


 心の中で葛藤があったことを知られないといい。


 立ち上がった。

 彼女の脇の下と膝の下に腕を突っ込んだ。


「えっ」


 抱え上げた。

 想像よりも軽かった。

 柔らかくて、いい匂いがする。


 だがそのまま寝室まで向かい、寝室のドアを蹴破り、ベッドの上に放り投げた。


「ぐえっ」


 彼女がベッドの上で跳ねた。そして転がった。


「寝ろ」


 乱暴に音を立ててドアを閉めた。


 心臓が爆発するかと思った。


 それでも自分たちは対等な関係ではない、というのが、アレックスの中ではどうしても解決しないのだ。






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