第9話 はぐれないように手をつないで
日曜日の夜の中央駅は人でごった返していた。別れを惜しむカップルやグループが多い。楽しい休日を一緒に過ごして月曜日を前に家へ帰るのだろう。
スーザンが乗るという特急列車は十九時二十分発だそうだ。アレックスは十八時に仕事を切り上げて中央駅に向かった。土産物をたくさん買い込んだスーザンとナヴァと合流して、三人で夕飯を食べた。
ここから田舎の地元までは特急列車で三時間だ。その気になれば日帰りもできる距離だが、時々はてしなく遠い距離のように思えてくる。
鉄道での移動に馴れたアレックスでさえそう思うのだから、徒歩移動が主で最近ようやく地下鉄の乗り方を覚えたナヴァにとってはもっと遠く感じる距離だろう。
ナヴァは涙ぐんだ状態でスーザンを見つめていた。
「大丈夫よ、いつでも遊びに来て。またすぐ会えるわ」
そう言ってスーザンがナヴァの肩を抱く。ナヴァがこくりと頷く。
ナヴァの様子を見ていると、アレックスも何となくスーザンとの別れがとてつもなく大きなことのように感じられてきてしまう。今時スマートフォンでもやり取りできるのだし、次の週末に田舎へ帰ってもいいくらいだというのに、妙にしんみりしてしまった。
「ごめん、母さん」
「何がよ」
「こっちに来ても家事ばっかりさせてたな、と思って」
「いいのよ、最初からそのために来たんだから。それにあんたが仕事に行ってる間は遊び呆けてたの。ナヴァとも出掛けられたわ」
スーザンの笑顔がまぶしく見えた。感傷的な気持ちになる。
彼女も永遠に生きていられるわけではない。どんなに健康で長生きしても、おそらくアレックスよりは先に死ぬ。まだ二十年か三十年の先のことだと思うが、それまでにどれくらいのことができるだろう。
「クリスマス、帰らなくてごめんね」
「それは反省しなさい」
時計台の針が十九時十分を指した。スーザンが「ホームに行かなくちゃ」と言ってナヴァを離した。
「また連休ができた時には帰ってきなさいね。お父さんもあんたに会いたがってるから」
「そうするよ。夏にでも」
「あと、そうね」
おどけたように肩をすくめる。
「ナヴァのこと、お父さんに話してもいい? きっとあれこれ本気にするわよ。お父さん、あんたと同じでバカがつくほど真面目だからね」
「知ってる」
アレックスは、頷いた。
「今度連れて帰るよ」
ナヴァの顔に笑みが浮かんだ。
スーザンが腕を伸ばす。アレックスを強く抱き締める。
「幸せになりなさい」
後頭部を優しく撫でるように叩いてから、離れた。
「じゃあね。仲良くしなさいね」
歩き出す。人混みに紛れていく。背中が遠くなっていく。
完全に姿が見えなくなってから、アレックスとナヴァは顔を見合わせた。
「俺たちも帰ろうか」
「ああ」
二人で地下鉄の方へ向かう。はぐれないよう手をつないで、階段を下りて地下のホームに辿り着く。
「なんだかんだ言って仲良くやってくれてよかったよ。母さん、強引だしお喋りだし、癖あるかな、と思ってたけど。ワイドショーで見るような嫁姑問題に巻き込まれるのは本当に嫌だったからほっとした」
地下鉄を待ちながらそんなことを漏らした。ナヴァは明るく声を上げて笑った。
「スーザンは何でも喋ってくれるから好きだ。実は、山は狭い村社会だから、親族と一緒にいても顔色を窺い合ってあえて話をせずに済ませようとすることがある。スーザンにはそういう暗さや行き詰まった感じがない」
意外な答えだった。自然のパガタはもっと素朴でシンプルで朗らかな社会だと思っていたのだ。道理でアシュリーやジェニファーとの衝突を避けていたわけである。彼女はもともと相当気を遣って生きている。
「本物の田舎というものは、おそらく、お前の故郷の町より大変だぞ。喧嘩でもしようものなら村中が敵になるかもしれないのだ。まあ、わたしは巫女なので、周りの方がわたしにこびへつらっていたと思うが、わたしも察して声を掛けてやらねばならなかった」
「そうだね……俺の地元は工業地帯の町で、季節労働者も多かったし、人の入れ替わりが激しくて、いろんなルーツを持った人がいた。みんな良くも悪くも主張するタイプだと思う。俺は聞き流すスキルを身に着けたけどね」
彼女の頭を撫で、「言いたいことがあったら全部言っていいんだよ」と囁いた。彼女は嬉しそうに目を細めた。
ホームに電車が入ってきた。やがて目の前に停止して、ドアが開いた。人いきれの熱気が身を包む。
「アレックス」
車内に乗ると、彼女が真剣な顔で言った。
「わたし、学校に行きたい」
予想外の発言だった。
「学校?」
「スーザンに夜間学校というものがあると聞いた。しかるべき時に学校に行けなかった人が勉強し直すための学校だと。わたし、そこに行ってみたい」
スーザンが何か吹き込んだようだ。彼女はもともと教育熱心な人だ。ナヴァから小学校しか出ていないことを聞いたのだろう。
ナヴァは真剣な顔をしてうつむいている。
「家事をする時間も減るだろうし、お前が仕事から帰ってきた時に留守かもしれないが。もっといろんなことを頑張るから、許してくれないだろうか」
アレックスは、頷いた。
「いいんだよ、俺のことは放っておいても」
「でも、妻としての務めをないがしろにしていないか心配になる」
「街ではね、夫も妻も好きなことをして、譲り合って、協力し合って、家庭を回していくものなんだよ」
ナヴァが顔を上げた。
「まあ、本当にまるっきり何の報告もなく勝手に話を進められたら困るけど。決めた時、決めた、って言ってくれれば、充分だよ。あとは、その時が来たら、どう生活するか、二人で話し合って調整していこう」
彼女の表情が緩んだ。
「今からだと夏学期からかな? 四月入学?」
すると、彼女は一瞬言い淀んだ。少し間を置いてから、言いにくそうに口を開いた。
「一度、実家に帰りたい」
小さな、消え入りそうな声だった。
「祖母や兄と話し合わなければならないことがある。家の、村の、山の今後のことだ。きっと一日二日では終わらない。自然のパガタ全体の未来の話になるだろうから、わたしの家族だけで話し合って済むことではないと思う」
アレックスも、笑みを消した。
「わたしには、巫女として、女王として、果たさねばならない務めがある。その義務や責任を放棄したくない」
彼女には、強い意志がある。自分の職務と出自に対する責任感と誇りがある。
自分の知らない文脈の秩序のある社会が存在している。
けして、蛮族などでは、ない。
「でも」
彼女の声に、涙が滲んだ。
「お前と生きていきたいから。わたしは、今のうちに片づけて、決着をつけてから、お前との将来のことをゆっくり考える。最終的にわたしがどこで何をして暮らすかは分からないが……、どんな形になるかは分からないが、少なくとも、わたしとお前の子供はきっと街でお前と暮らすことになるだろう」
「そっか」
抱き締めたくなったが、ここは地下鉄の車内だ。ぐっとこらえる。
「そっか……」
結論を出すまでは、口を出さない、と誓った。
「分かった。山まで送るよ」
ナヴァは、頷いた。
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