第10話 婚姻届を用意して待ってる

 その翌週の土曜日、アレックスはレンタカーを借りた。聖地の山へは鉄道の路線がないからだ。


「山は一応政府の定めた居留地だが、実質的にはわたしの一族が統治している自治州だ。本来の長であるわたしか、形式的な長をしている兄か、一番の実力者である長老の祖母、といったような、一族でそれなりの権限を持つ者の承認がなければ開発できない。強引にしようとすれば、悪い霊の祟りがあるだろうし、祟りがなくても山のパガタが面子を潰されたとして反乱を起こせば大変なことになる。政府も鉄道会社もおおごとにしたくないだろう」


 車の助手席でナヴァが言う。


 彼女は今日、久しぶりに民族衣装を着た。革の衣装の上に毛皮を羽織っていて温かそうだ。ずっと車での移動なので他人にじろじろと見られることはない。


「実は、山だけでなく草原や森といった西部の自然のパガタ全体がそうなのだが、本格的に狩りを生業としている者は猟銃を使っていてな。ブローニングのライフルだ」

「めちゃくちゃ現代的じゃないか」

「政府は先住民文化保護法がある限り自然のパガタが狩りをするのを禁止できない。猟銃の所持を許可せざるを得ないのだ。山のパガタの男はほとんどが狩りをするために猟銃を持っている。そんな集団が大挙して麓の町を襲ってみろ」

「ほぼテロだねそりゃ」


 先住民文化保護法は数年前施行された法律だ。パガタが独自の文化を守るために必要な支援を行なう、といった趣旨のものである。二〇〇七年に国連で決議された先住民族の権利に関する国際連合宣言の影響を受けて整備された。この法の成立によって、パガタ史の研究に奨励金が出るようになり、学校にはパガタ語の授業が設けられ、海のパガタのような商業化したパガタの活動が役所を通じて大きく広報されるようになった。


「わたしは鉄道を敷くことも認めたいと思う」


 ナヴァが力強い声で言う。


「公共交通機関ができたら、国内各地から山に来やすくなるだろう。山の人間も街に出やすくなる。山は世俗化してしまうかもしれないが、まあ、そういう時代になったのだ。後は山の祭祀を司る人間の心がけ次第だろう」


 ちらりと、運転席のアレックスの方を見る。


「たいへん個人的なことになって少し恥ずかしいが……、そうなれば、お前とも一緒に過ごしやすいだろうな。わたしはもっと気軽に山と街を行き来できるようになるのだから」


 そうなれば、実は、アレックスの実家より山の方が近くなる。日帰りでも往復できるようになるだろう。


「ナヴァが承諾書にサインすることになるのかな」


 彼女は「そこまでは分からない」と答えた。


「わたしは、兄に正式な長になってほしいと思っている」


 いつかザンザと居酒屋で話をした時のことを思い出した。ナヴァの三つ年上の兄は、インフルエンザの大流行を生き残った結果、五人の妻を娶らなければならなくなったという。

 違法だ。この国の法律では重婚は認められていない。しかも、ナヴァの結婚観を鑑みるに、彼の妻たちも若いのではないか。あえてナヴァには確認しなかったが、法では認められていない十八歳未満の妻もいるかもしれなかった。


「兄は穏やかな、おとなしい人でな。真面目でひとがいいところは少しお前と重なるところがあるが、はっきり言ってしまえば気弱なのだ。わたしや祖母が強いことを言うと逆らえない。まして歴史上男の王はいなかったのだから、余計に不安だろう」


 ステレオタイプで考えれば、パガタらしくない男だ。けれど今のアレックスは知っている。自然のパガタにもいろんな人間がいる。


「しかし、山はもともとひとと衝突することをよしとしないところだ。ひとの話をよく聞くタイプの兄は長としてやっていけないわけではないと思う。力強い指導者になれるかどうかは疑問だが、そこは巫女であるわたしがフォローすれば何とかなる――と信じる」

「なかなか難しいね。ナヴァの負担が減るわけじゃないんじゃないかな」

「いや、わたしが無理をして子供を産んで次の族長を育てなくてもよくなる。兄に後継者の選定を任せられるのだから。巫女は本来生涯処女であるべきもので、巫女の姉妹が長になって子を産んで家を継いでいくものだ、元の形に戻ったとも言える」

「なるほどな」


 だが、ナヴァの兄は子供を作れない体のはずだ。

 そんなアレックスの心配を汲み取ったかのように、ナヴァが言った。


「養子でもいいのではないだろうか。今までそんなことがなかったからできないと思っているだけだ。前例はわたしたちが作ればいい。兄がどこかから子供を貰ってきて、山のみんなで育てればいいのだ」


 ナヴァの声にためらいがない。


 辺りがいつの間にか雪景色になった。国道は除雪されていて道路の通行に支障はなかったが、路肩には白い雪が積み上げられている。


「――そろそろ行かねばな」


 ナヴァのその言葉を聞いて、アレックスは悟った。


 今、ナヴァより自分の方が寂しがっている。


 ナヴァが街に戻ってくるのはいつになるか分からない。来月かもしれないし、来年かもしれないし、十年後かもしれないし、二十年後かもしれない。


 こんなことならむりやりにでも抱いておけばよかった、と思う自分が愚かしい。彼女を部屋に閉じ込めて自分だけのものにして可愛がりたいと思う、そんな恐ろしく醜い自分がいることに気づく。誰にも会わせたくない、まして手放すなど考えられない。


 だが、ナヴァは意思のある個人で、その尊厳は誰かに侵されるべきではない。彼女自身が山に戻ることを望んでいる以上、その望みを叶えてやらなければならない。

 それが、愛する、ということなのではないか。


 居留地の看板が見えてきた。


 山道に入る手前、林の前の小さな広場のようなところに車を停めた。


 山の居留地は鉄の柵で囲われていたが、その柵は低く、小学生くらいなら乗り越えられそうだった。山道の正面、柵についた鉄の戸にも、錠はついていない。監視カメラなどもない。知らない人間はここが聖地の入り口だとは思わなさそうだ。金持ちの私有地に似ている。


「わたしはもう行く」


 念押しするように「すぐ行く」と繰り返す。


「あまり長くいると未練が残る。お前もすぐ麓の町に行け」


 苦笑して「分かったよ」と答えた。


 ナヴァがシートベルトを外す。


「スマホとIDカードは持った?」

「ああ」

「なくさないでよ」

「もちろん。お前と連絡が取れなくなるのは恐ろしいし、住民コードがなければ婚姻届も出せないからな」


 顔を見たくなかった。ともすれば泣いてしまいそうだったからだ。

 それを、彼女が「こちらを向け」と言う。


「なに?」


 顔を向けると、口づけをされた。


「またな」


 彼女は笑っていた。その紫の瞳からは今にも涙がこぼれ落ちそうだったが、それでも、笑っていた。


 アレックスも強引に笑った。


「戻ってきたら、結婚しよう。婚姻届を用意して待ってる」


 ナヴァは絶対に帰ってくると信じることはできた。彼女はいつか絶対に戻ってきて自分と結婚するだろう。そして子供を産むだろう。子供は二人か三人がいい。賑やかで明るい家庭にしたい。


 彼女は頷いた。その瞬間、涙がこぼれた。


「楽しみにしている」


 それだけ言うと、彼女は車から降りた。


 山道を駆け上がっていく背中を、アレックスはしばらくの間見つめていた。


 きっとまた会える。

 愉快で楽しい、幸せな未来が待っているはずだ。




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