第7話 居酒屋での話 2
ザンザが身振り手振りを加えながら話す。
「インフルエンザの予防接種をするという考えはない。というかインフルエンザがどうやって伝染するかも知らない。山には病院もない、巫女が祈祷をして治そうとする。そういう環境だと一回誰かが街でウイルスを貰ってきたらパンデミックだ。そもそも食事が狩猟採集生活のせいで偏ってて栄養状態があまりよくないから、40℃の高熱を乗り切るのは大変だろうな」
ナヴァが頷いた。
「ザンザの言うことは全部本当だ。ただ、わたしだけがかからなかった。老人たちはみんなわたしに精霊王の加護があるからだと言っていたが、わたしはわたしが巫女見習いとして隔離された生活を送っていたからだと思っている。わたしは小学校に通った経験があって、学校で伝染病が流行るとどうなるのか知っていたからな」
そこで溜息をつく。
「だが言わなかった。わたし以外に巫女になれる人間がいないからだ。わたしは神がかり的な存在として自分の名誉を高めなければならなかった。まずは自然のパガタが巫女を失わないこと、これが何よりも大事だと思った」
うつむいて、小声で喋る。
「その時、父と兄が一人、妹と弟二人が死んだ。兄弟がわたしと兄と姉の三人だけになってしまった」
アレックスは心の中で指折り数えた。兄が二人、姉が一人、弟が二人、妹、そしてナヴァ――合計で七人兄弟だ。今時街ではありえないほど兄弟が多い。おそらく親に避妊の知識がなくて多産なのだ。ぞっとする。
「姉と兄が一人ずつ生き残ったが――」
両手の指と指とを組み合わせる。
「姉は大勢の人に望まれて何とか妊娠したが、難産で死んでしまった。赤子も死産だった」
先ほど、ザンザが、原始的なお産、と言っていたのを思い出した。
まだ続きがあった。
「山のパガタの長は女でないとならない。巫女の姉妹でなければならないのだ。しかし兄しか生き残らなかったので、長老たちは、兄を一時的な長にして、兄の娘に長の座を継承させようとした。ところが――」
一瞬、言葉が切れた。少しのあいだ、間が開いた。
「兄は合計で五人の妻を娶ったが、この三年間で誰一人として妊娠しなかった」
言いにくそうに、「おそらく」と付け足す。
「兄は病に――インフルエンザにかかって大変な高熱を出した。それで子種が死んでしまったのではないか?」
アレックスも言葉が出なかった。
「もう、一族で子供を作れるのが、わたししか残っていなかった。わたしが巫女も長も兼任して、なおかつ、子供を産んで次の長を育てなければならない」
指を解き、テーブルの上に腕を置く。その上に突っ伏す。
「わたしは子供を産まなければならない。そうしなければ山が滅びる。山だけでない、自然のパガタすべてが長を失って惑うだろう。跡目を巡って戦が起こるかもしれない。何としてでも避けなければならない。後継者を作らなければならない」
ザンザがそこで「と、いうわけだ」と締めくくった。
「それで、街に下りてきたの?」
ナヴァが頷く。
「自然のパガタから夫を選ぶことができなかった。どこかの部族から選べば、その部族が力を持ってしまうからな。バランスが崩れる。今の状態のまま――統治のノウハウを持った山だけが平和的な支配を続けている状況を維持したまま世継ぎを作るには、わたしは、自然のパガタの外、つまり街のパガタの男から夫を選ばなければならない。しかし、街には知り合いもいないし、長老たちが巫女の目で長にふさわしい男を自ら選んでこいと言うので――」
ようやく話がつながった。
「なんでそれ俺に説明してくれなかったの?」
彼女は答えなかった。
ザンザが「それはもういいだろ」と言う。
「いや、よくないよ。そんな状況でのうのうとナヴァと暮らすことはできない」
すると泣きそうな声が聞こえてくるのだ。
「そう言うと思ったから言えなかった」
もしかしたらすでに泣いているのかもしれない。
「お前に嫌われたくなかった」
「それは――」
自分が残酷なことを言おうとしているのも分かっていた。
だが一度胸に芽生えた疑念は払拭できなかった。この三ヶ月で積み上げたすべてのことが瓦解しようとしていた。
「子供を産むために俺を利用したかったから?」
「やめろ。ナヴァを追い詰める物言いはよせ」
そう言ってナヴァを庇ったのはザンザだ。
「もう一回言うぞ」
彼は、真剣な目をしていた。
「これを受け入れられないなら、ナヴァを俺に譲れ。俺が全部背負ってやる」
ナヴァは何も言わなかった。アレックスも何も言えなかった。
どれくらい時間が過ぎたことだろう。
喉が渇いたので、手元にあったジュースを一口含んだ。ただのコーラのはずなのに、酔ったかのような疲労を感じた。
「一回帰らせてほしい。明日も仕事だし、ちょっといろいろ考えさせてほしい」
吐き出すようにそう言うと、意外にもザンザはすんなり「分かった」と言って頷いた。
ナヴァが弾かれたように顔を上げた。
「わたしはどうしたらいい?」
震える声で、小動物のような目で言う。
「わたしも一緒に帰ってもいいか?」
だがアレックスは頷けなかった。
「ちょっと距離を置きたい」
ナヴァは硬直した。目を丸く見開いて、アレックスをまじまじと眺めただけで、何も言わなくなった。
「俺が連れて帰る」
ザンザがそう言って、ナヴァの腰に手を回した。
「大丈夫だ、何もしない。そう簡単には巫女の神聖なからだをどうこうはできないからな。でも他に行き場所はないだろ? ホテルだと思って泊まりに来い」
つい、アレックスは「そうして」と言ってしまった。
「ごめん、ナヴァ」
ナヴァはただ呆然とアレックスを見ているだけだった。
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