第9話 対等な人間でいるためには
年内最後の出勤を終え、帰路についた。
昨日の今頃は長い休みへの突入を祝ってナヴァとチキンでも食べようかと考えていたが、いざ今日になってみると自宅へ向かう足取りは重かった。こんなことなら職場の近くで一人ででも飲めばよかったと思う。しかし楽しく酔える気もしない。
一人暮らしの自宅に帰る。
三ヶ月前は当たり前だったことが、こんなにもつらい。
ところが――区立公園の真ん中を歩いていた時だった。
「シケたツラしてるな、アレックス」
突如横から声を掛けられた。
声のする方に顔を向けると、街路樹として植えられている広葉樹に背の高い男がもたれかかっていた。
編み込まれた銀の長髪、頭の上にのせられた高価そうなサングラス、いたずらに細められた紫の瞳の男――ザンザだ。
「おかえりなさい、アレックス。お仕事お疲れ様です」
言葉尻こそ優しく丁寧だが、表情は底意地の悪そうな笑顔だ。
「なんでこんなところにいるの? 暇なの?」
「昨日舞台やってる時は規則正しい生活してるっつっただろうが」
彼は西の方を指して「俺も近所に住んでる」と言った。そちらも特にこれと言ったもののない住宅街だ。意外だった。もっと高級住宅街に住んでいるものだと思っていたのだ。とはいえ都心から地下鉄で三十分なので便利といえば便利である。
「駅はひとつ手前だが、体づくりで走り込む時にはよくこの公園を通る」
この公園はランナーたちの聖地だ。ひょっとしたら、頻繁に長時間この公園で過ごしていたナヴァは知り合うよりも前から彼の顔を見ていたのかもしれない。
「案外庶民的なんだね」
「稼いだ分出ていく金も多いんだ」
金遣いは荒そうだ。昨日もろくに伝票やレシートを見ず全額カードで払っていた。アレックスは彼に出させることでプライドを傷つけられてもやもやしたが、結局いくら払ったのか教えてもらえていない。
「何してたの?」
「お前を待ってたんだ。お前と一対一で話したくてな」
言ってから、左手に持っていた缶コーヒーを飲む。今日はアルコールではないらしい。
「俺を待ってたの?」
「そう。まあ、そんなに長時間待っていたわけじゃないが。ナヴァにだいたい何時ぐらいに帰ってくるか訊いてな。通勤で公園を通ることもナヴァから聞いた」
「俺が残業したらどうするの? 待ってたの?」
「その時はその時だ。俺は気が長い方だしスマホいじってりゃ一時間くらい平気で流れるだろ」
「それは意外だ。忙しいんだから時間を無駄にしない方がいいよ」
「どうも」
通路の真ん中に突っ立っているわけにはいかず、アレックスは一歩芝生の方に入った。
二人向かい合って街灯の下に立つ。冬なので虫もいない。
「話って何?」
わざとつっけんどんに言った。
「ナヴァの件なら本人と直接話してほしい。俺はもう関与する気はない」
ザンザの顔から表情が消えた。
「ザンザの言うとおりだ。俺には背負う覚悟なんてない。しかもザンザと会うまでそんな話一切出なかった」
吐き出すように続ける。
「本当に無理なんだ。自然のパガタの掟とかいうものが一切理解できない。正直野蛮だと思ってる」
そしてこの一日ずっと喉の奥に引っ掛かっていた言葉を口にした。
「初めて見たものを親だと思うのって、アヒルだっけガチョウだっけ」
「何の話だ」
「最初に出会ったのが俺じゃなくてザンザだったらザンザの方に懐いたんじゃないのってこと」
次の時だ。
ザンザが缶コーヒーを放り投げた。
左腕が伸びた。
胸倉をつかまれた。
突然のことで対処できなかった。
彼は思い切り右腕を振りかぶった。
拳が頬にぶつかる。強い衝撃が歯にまで伝わってくる。重い、熱い痛みだ。
殴られた。
体のバランスを崩してその場に座り込んだ。
缶が転がる音がする。
「これひとに見られてたら俺好感度がた落ちだな」
口の中が鉄の味だ。
「今傷害で訴えたらお前俺のこと社会的に葬れるぜ」
「やらないよ」
地面に手をつく。
「今ザンザに何かあったら困るのはナヴァでしょ」
「本気でそう思ってんのか」
「もちろん。俺はもう世話できないから」
また、胸倉をつかまれた。上に引っ張るようにして強引に立たされた。
「本当にいいんだな」
その声が震えている。
「あいつ昨日ひと晩どうしてたか想像がつかないか」
「まったく」
「朝まで泣いてた。お前に嫌われたと言って」
手も震えている。
「お前ら街の人間はいつもそうだ。自然のパガタがどんな気持ちでいるのかまったく考えない」
日の暮れた公園は静かだ。広い面積を誇る公園からは住宅が遠くて生活音は聞こえてこない。繁華街も企業や官公庁も近場にはないので、この時間は通勤通学で通り過ぎる人間しかいない。今はたまたま無人で、アレックスとザンザしかいなかった。
「知ってるか?」
胸倉をつかんだまま、揺すぶられた。
「俺たちも人間だ」
「知ってるよ」
ザンザの手をつかむ。
「だからこそ嫌なんでしょう」
ザンザが目を丸くした。
「ナヴァは二十歳の女の子だよ。巫女だか女王だか知らないけど、家のために子供を産めなんて二十一世紀じゃないよ。どれだけの負担を強いてると思ってるの? しかもナヴァのお姉さんは出産で死んでるんでしょ?」
むりやりザンザの手を剥ぎ取った。
「怖いだろうと思うし、もし本人がそう思っていなくても俺が怖い」
彼は手を下ろした。
「もしかしたら、あんたらはそれでいいのかもしれないよ。でも俺にだって譲れない価値観がある。全部は受け入れられない」
しばらくの間、彼は黙ってアレックスを見つめていた。それに居心地の悪さを感じて、アレックスは目を逸らし、斜め下を見た。
「俺が嫌なんだ」
何となく自信がなくなって声が小さくなる。
「ナヴァと対等な人間でいるためにはどうしたらいいのかずっと考えてる。そういう俺は偉そうなのかもしれないけど、俺はナヴァを傷つけたくないから」
言いながら気持ちが整理できてきたのか、自分が自分で本当はそう思っていたのかと悟った。
ナヴァとアレックスの関係は対等ではない。はっきりとした力関係がある。それは不健全なもので、その間に芽生えるものは少なくともアレックスの想定する愛情ではない。
一緒にいる間に、その距離は縮まった、と思っていた。
まだ足りない。まだもう少し時間が必要だ。
でもナヴァは急いでいる。
「結論を出す前にどうこうしたいなら一緒にいることはできない。今度は俺が傷つくから。もう意気地なしとでも何とでも言えよ、俺は年下の女の子の人権を侵害して平気でいられる奴だと思われたくないんだよ」
そこで、ザンザがひとつ、溜息をついた。
「お前、いつか騙されて借金の保証人になるぞ」
「それいろんな人に言われる」
「街の人間がみんなそんな考え方の奴だったら自然のパガタの生活はもうちょっとマシになるんだろうな」
それから、後ろの方を見た。
「――だってさ。聞いたか、ナヴァ」
はっとしてザンザの視線の先を辿った。
通りの反対側の街路樹から、ナヴァが姿を見せた。
街灯に照らし出された彼女は泣いていて、声を漏らすまいと手で自分の口を押えていた。
顔を見たら堪えきれなくなったのだろうか。アレックスに駆け寄ってきて、しがみつくように抱きついた。
「え、いたの? ずっと?」
「ああ、最初から最後までな」
慌てて「騙したの?」と問い掛けると、ザンザはまた先ほどまでの意地の悪そうな笑みを浮かべて「俺は役者なんでな」と答えた。
「ごめんなさい」
アレックスの胸に額を押し付けながら、ナヴァが言う。
「わたしがたくさん間違えた。お前を傷つけていたかもしれない」
アレックスは苦笑した。
「俺の台詞だよ。俺にはどうするのがナヴァのためになるのか分からなかった。たぶんこれからも言ってくれなきゃ分からないよ。育った環境が違い過ぎる」
「でも、すき」
ひとつしゃくり上げる。
「お前のことが好きだ」
涙で顔をくしゃくしゃにして、訴えるように言う。
「お前の言うとおりだ。わたしも最初は怖かった。だからできる限り優しそうな男にしようと思った。逃れられない宿命ならその宿命に背かない範囲でわたしが楽できる道を選ぼうと思ったのだ。お前にとても失礼なことをした」
そして「でも」と続ける。
「お前といると心底安心できる。山にいた頃のつらかったことをすべて忘れて暮らしていた。ずっとこのままこの時間が続いたらと思ってしまった。とても罪深いことを。巫女としての責任を果たせないことを」
彼女の髪を撫でた。
「今は、本当に、お前の子供を産みたいのだ。他でもなくお前の。それがわたしの幸せなのだ。惚れた男の子供を産むことは自然のパガタの女にとって一番幸せで愛情深い行為なのだ」
「そっか」
強く、抱き締める。
「そっか……」
足音がした。
見ると、ザンザがいつの間にか後ろを向いて立ち去ろうとしていた。
彼の背中を見る。筋骨たくましい背中は頼もしく、パガタの戦士の誇りを感じる。
黙って見送ろう――そう思っていた。
ナヴァが言った。
「空き缶を拾っていけ。ポイ捨ては許さないぞ」
ザンザは笑いながら「はいはい」と言って足元に落ちていたコーヒーの空き缶を拾った。空き缶を手に持ったまま、夜の闇に消えていった。
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