第3話 ナヴァにはカフェラテが苦かった

 アシュリーが選んだのは、公園に面した通りにあるカフェだった。白い壁に木材そのままの屋根のシンプルな外装のカフェだ。店内も壁は白いが窓から入る自然光を使っているので落ち着いた印象だ。


「いらっしゃいませ」


 そう挨拶してきたのは若き店主のジェニファーだ。確かアレックスより二つか三つ年上程度の年齢だが、一国一城の主といえる。ランチの時間帯にだけアルバイトのウエイトレスがいるものの、基本的には彼女が一人で軽食の調理から経理まですべてこなしているらしい。


 アレックスは同じ街のパガタとして彼女を尊敬していた。


 彼女は今日も肩までの銀髪を緩くひとつに束ねて、浅黒い肌を覆う七分丈のシャツの上に、店のロゴが入ったデニム生地のエプロンをつけている。


「こんにちは、ジェーン」


 アシュリーがジェニファーの愛称を呼ぶと、ジェニファーは穏やかな笑顔で「あらアシュリー、今日も来てくれたのね」と応じた。温厚で穏やかな、落ち着いた笑みだ。


「それと――あらあら? アレックスじゃない、久しぶり! 元気だった?」

「いろいろあったけど何とか生きてるよ。ジェーンは変わらないね」


 ジェニファーがアシュリーとアレックスを交互に見て、「お友達?」と訊ねてくる。アシュリーが「会社の同僚なの」と答える。


「意外な接点! アシュリーの部下ってこと?」

「そうよ。私からしたらアレックスが女性の多いカフェに出入りしていることの方が意外だけれど」

「一昨年から去年にかけて、年下の可愛いパガタのカノジョとよく来てくれていたよね」


 アレックスは首を横に振って「その話は忘れてほしい」と言った。ジェニファーが「ごめんなさい、失言だったね、お客様のプライベートに踏み込むのはよくないわ」と手を振った。


 ナヴァがアレックスの服の背中をつかんで「恋人がいたのか」と問い掛けてくる。


「ふられたんだよ!」

「なんと、わたしにとってはとてもいい話だった」


 ジェニファーが驚いた顔で「そちらのレディは?」と質問してくる。


「アレックスが自然のパガタのお客様を連れてきてくれるのは初めてよ。ようこそ。嬉しい」


 ナヴァは胸を張って「わたしはナヴァだ」と名乗った。


「アレックスの妻だ」

「待って、お願い、アシュリーもジェーンも誤解するから、ゆっくり説明させて」

「誤解ではない」

「自称でしょ」

「そう……、まあ、今後の予定だ」


 さすが客商売が長いだけあってジェニファーは動じなかった。「とりあえずテーブル席へ」と言って三人を奥の席に案内した。


 まず、アシュリーが奥の席に座る。その向かいにナヴァが座り、ナヴァの隣にアレックスが腰を下ろす。


「ご注文は?」


 アシュリーが「私はいつもの」と答える。


「頻繁に来てるんですか?」

「土曜日のランニングの後に毎週寄っているのよ」


 納得して頷く。


「俺はオリジナルブレンドで」


 そして、ナヴァを見る。


「ナヴァは?」


 彼女は縮こまっていた。


 ジェニファーが腕を伸ばした。テーブルの奥、窓際から一枚の大きなカードを持ってきて、ナヴァの目の前に置いた。メニュー表だ。


「字は読めるかしら」


 ナヴァが頷く。


「だが……、これは何だろう?」


 アレックスはぎょっとした。


「山にはカフェとかないの?」

「こんなしゃれた店はない。マクドナルドならある」


 メニュー表をひっくり返す。裏面はランチメニューとスイーツメニューだ。写真が載っている。


「とりあえず飲み物なんだけど――」


 ジェニファーが自然と説明を始めた。


「ここからここまでがコーヒー、ここからここまでが紅茶、ここから下がフルーツジュースだよ。コーヒーの名前と紅茶の名前はざっくり言って産地だと思ってくれていい。なんなら私のオススメを適当に出すけど――牛乳を入れてカフェラテというものを作ることもできるよ」


 感心した様子で「はあ」と呟く。


「では、ジェーンの感覚で一番いい、温かいカフェラテを出してほしい」

「かしこまりました」


 にこりと微笑んだジェニファーはプロフェッショナルだ。


 ややして、彼女はカップを三つ持ってきた。それぞれの前に置く。そしてそそくさと離れていく。


 アシュリーが、一口飲んでひとつ息を吐いてから、重々しい雰囲気で言った。


「で。アレックスとナヴァはどういう経緯で一緒にいるのかしら」


 カフェラテに息を吹きかけていたナヴァが、顔を上げる。


「なぜそれをアシュリーに話す必要がある?」


 アレックスは驚いた。ナヴァがこのように反抗的な態度を見せるのは初めてだったからだ。


 アシュリーはまったく負けなかった。むしろ少し強い姿勢で、「場合によっては警察に通報します」と答えた。アレックスの方が震え上がった。


「なぜだ。違法なことは何もしていないぞ」

「アレックスの家に寝泊まりしているんですってね?」

「そうだ」

「未成年の女性が成人した男性と一対一でひとつの家に住むということがどれほど重い意味があるのか意識したことはない?」


 ナヴァが口を尖らせる。


「わたしは二十歳だ。パガタの掟でもメジャーの法律でも成人している」


 アシュリーが面食らったらしく一瞬沈黙した。

 その隙を突くように、ナヴァが続けた。


「アレックスは何も悪いことをしていない。わたしは山のパガタの長老会の決定に従って山を下りた。山から数日かけて歩いて、この近くの駅の前で力尽きて、孤独とひもじさで困っていたところを、アレックスに声を掛けられたことで救われた。わたしはこの男こそ本当の男だと思って求婚している」


 アシュリーがアレックスを見た。

 アレックスはこわごわ頷いた。


「ナヴァが言うことがだいたいすべてです。俺はナヴァが明らかに自然のパガタで街に馴れない様子なのを見て保護しなければと思って。でも手は出していません、結婚するつもりはないので、何事もなく、役所の手続きが終わったらシェルターなり新居なり元の山なりに移ってもらう予定なんです」

「一般人であるあなたが保護するというのはおかしいわね。公的機関がすべき仕事だわ」

「警察には行ったんですよ。でもナヴァは成人しているので自己責任だと言われたんです。区役所の先住民生活支援課にも行ったんですが、似たような対応で、帰されてしまいました」


 そこまで説明したところで、アシュリーはようやく納得してくれたようだった。


「そう。警察と行政が把握しているのでは、誘拐でも監禁でもないわね」


 ナヴァが立ち上がった。


「アレックスはそういう男ではない!」


 名誉を守ろうとしてくれるのはありがたいが、他の客やジェニファーが見ている。

 アレックスは苦笑して「落ち着いて、座って」と言った。ナヴァが不承不承ながら腰を下ろす。


「そもそも保護とは何だ」


 不満気な顔で、カフェラテに口をつける。


「わたしの意思で街に来た。アレックスの傍にいるのもわたしの意思だ。そしてわたしは守られなければならないほど弱い女ではないし、子供でもない」


 だが、今度はアレックスが言った。


「でも、俺もずっと引っかかってて。罪悪感というか……、自然のパガタの女性を引き留めるのっておかしいのでは、と。早くシェルターに行かせなきゃ、とずっと思ってるんです」


 そして逆に「アシュリーはどう思います?」と訊ねた。アシュリーは何の豆か分からないがミルクをたっぷり注いだコーヒーを一口飲んだ後「そうね」と呟いた。


「あなたの感覚はおかしくないと思うわ。だって、見るからに自然のパガタよ」


 ナヴァがうつむいた。


「自然のパガタは保護されなければならないのか」


 言われてから、はっとした。


「なぜだ? わたしは悲しい」


 その問い掛けにどう答えたらいいのか分からなかった。街の人間として当然のことのように思っていたのだ。


「わたしはアレックスといたいのに、いけないことなのか」


 アシュリーが「そう」と言ってカップをソーサーに置く。


「いずれにせよ、山に帰る気はないのね?」


 ナヴァが「子供ができるまでは」と答える。その衝撃的な回答には困ったが、アシュリーも慣れてきたのか「その話は置いておいて」と切り上げた。


「街で暮らすなら、した方がいいことがひとつあるわ」

「何だ?」

「着替えよ」


 アレックスは思わず「あっ」と呟いた。言われてから気づいた。


「その恰好は目立ちすぎるのよ。街のパガタのような服装をすることをオススメする」

「そうだ、ナヴァ、そうしよう!」


 ナヴァはしばらくきょとんとしていた。

 アシュリーがどんどん話を進める。


「ジェーン!」


 カウンターの中からジェニファーが「はい」と返事をする。


「この子に服を貸してあげてくれないかしら? できれば店の奥で着替えさせてちょうだい」

「ナヴァに?」


 彼女はすぐに「いいよ、上がって」と言ってくれた。


「こちらに来て、ナヴァ」


 困惑した様子のナヴァを、アレックスが後押しした。


「行って、ナヴァ。それでいろんなことが解決するから」


 ナヴァはしばらく黙ってアレックスを眺めていた。


「……分かった」


 ややして、彼女は立ち上がって、アレックスを押し退けてカウンターの方へ歩いていった。




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