第2話 地獄の年度末決算の始まり

 地獄の年度末決算である。


 この決算にはこの会社のすべてが詰まっていると言っても過言ではない。


 去年一年間の売上、利益、純利益が出る。

 株主への配当金から社員報酬までのすべてが決まる。対外的には社会的信用につながり、対内的には経営方針につながる。設備投資も資産運用も年度末決算の結果をもとに策定されるのである。

 会社の運命が経理部に託されたのだ。

 ひとつのミスも許されない。


 加えて、毎月の月次決算を休めるわけではない。第四四半期の決算もある。実は、一月初旬は三つの決算が重なっているのだ。


 締め切りは厳格に定められている。月次決算と第四四半期決算はいつもどおり第五営業日までに出さなければならない。年度末決算の最終発表は三月の株主総会だが、今月中に仮の数値の速報を出すため、ほぼ並行している。


 十二月、年度ノルマを前に苦悩する営業部の面々に明るく笑って手を振って定時帰りをしていた経理部は、一月、地獄の様相を呈した。

 クリスマスと年末年始の休暇を終え、全社的にはどこかのんびりした空気が流れる中、経理部だけが殺伐としている。夜二十一時を過ぎてもLEDの灯りは消えず、フロアはむなしい明るさに包まれていた。


 斜め向かいの席、貸借対照表課負債係担当の青年が、デスクに突っ伏した状態で、呟いた。


「経理部は……肉体労働……」


 こちら側、貸借対照表課資産係担当のアレックスは、それに続いた。


「必要なのは、ガッツとタフネス」


 アレックスの隣の席にいる貸借対照表課資産係の主任が、さらに続けた。


「やれば終わる。やれば終わる。やれば終わるんだやるんだ」


 決算書を作ること自体はさほど難しいことではない。仕訳のルールを覚えれば後は単純作業だと言ってもいい。マニュアルどおりに社内システムを操作し、出力したCSVデータをエクセルのマクロで吸い上げ、最後決算書の仕様にあわせた表データを作れば終わりだ。


 人間の主な仕事は、その大元の仕訳に間違いがないか、間違いがあった場合いつどこの部署がどんな間違いをしたのかを究明することだ。


 この大元の仕訳が結構皆間違えて仕訳ソフトに入力しているのである。


 絶対に合わない。それも一ヵ所二ヵ所ではない。


 それを根気強く粘り強くチェックして、必要なら仕訳入力をした支社や部署に訂正を依頼する。

 そのしつこさこそ経理部が嫌われる最大の所以である。


 だいたい営業部が無茶な仕訳をして経費を操作しようとする。悪意を感じる仕訳がなされている時もある。そうして営業部と喧嘩になる。経理部には営業部に巣食った悪を滅する戦いが宿命付けられているのだ。


 背後の損益計算書課から、「クソ!」という叫び声が上がった。


「また営業本部だ! やられた! 一からやり直し!」


 彼女の台詞が響いた後、フロア中で溜息が聞こえた。何度も繰り返されてきた嘆きだった。


「アレックス、ちょっと明日の朝一番で営業本部に行ってきて。直せって言ってきて」

「なんで俺なんだよ、自分で行きなよ。俺は費用担当じゃない」


「みんなやっている?」


 顔を上げると、アシュリーが、朝と変わらぬ化粧崩れのない顔に乱れた様子のない巻き髪でフロアに入ってきていた。

 彼女の両手にはコンビニのロゴが入った白いビニール袋がさげられている。


「進捗報告」


 彼女がそう言うと、資産係の主任と負債係の主任が立ち上がった。


「報告します! 月次決算、流動資産と固定資産出ました! 第四四半期は固定資産がまだです! 年度末決算、進捗だめです!」

「月次決算は今日中にエクセルの表まで終わらせなさいと言ったはずよ。顔を洗って出直してきなさい」

「報告します! 月次決算、完成して表まで課長宛てにメールで提出しました! 資産係に足を引っ張られています! 第四四半期は固定負債だけ完了です! 年度末決算、進捗だめです!」

「資産係をそこの窓から吊るしなさい」

「イエッサー、キャンベル軍曹!」

「冗談よ。これ、差し入れ」


 かつてレベッカが使っていた、今は空きになっているデスクの上に、アシュリーがビニール袋を置いた。


「主任は自分の係の担当に配りなさい」


 各係の主任が広げると、大量の栄養ドリンクと菓子パンが出てきた。


「おお……慈悲……!」

「損益計算書課にも恵んであげます。お飲みなさい」


 後ろの損益計算書課から「女神の慈悲!」とアシュリーを褒めたたえる声が聞こえてくる。


「飲み終わったら今日はもう帰りなさい。二十二時まで会社に残らせるのは非人道的だわ」

「女神……!」

「その代わり土日に出勤することね。意地でも第五営業日に合わせなさい」

「慈悲などなかったのだ……!」


 ある者は「嫌だ、土日に出るくらいなら今日会社に泊まる」と叫んだが、アレックスは席を立った。


「いいや。俺、休日出勤しよう」

「諦めが早いな」

「脳味噌が焼き切れて数字の見間違えが多発してるし、明日から支社や営業部と戦うんだと思ったら心が折れた」


 パソコンの画面だけでチェックしていると細かな見落としが発生する。アレックスはずっとプリントアウトした紙の表に赤いボールペンで怪しいところに印をつけていた。あまりにもミスがありすぎて、いつの間にか真っ赤になって何が何だか分からなくなっていた。


「お先に失礼」


 コートを羽織り、バッグを手にして、ふらふらとフロアを出ていく。


 そんな背中に、アシュリーが「明日は固定資産もよろしく」と投げ掛けた。悪魔である。




 何はともあれナヴァの顔を見たかった。彼女を抱き締め、彼女に褒められ、彼女の作った料理を食べたかった。アシュリーが買ってきたパンでは心が満ち足りない。


 朝、家を出た時の、「今日も残業なのか」と言って寂しそうな顔をした彼女の様子が脳裏に浮かぶ。


 平日毎日遅くなるが休日はまるまる一緒に過ごせるのと、平日も一緒に夕飯を食べられるが休日がなくなって出掛けられなくなるのと、ナヴァからしたらどちらがいいのだろう。

 大学時代から交際していた恋人とはこの辺の認識の違いが原因で破局した。ナヴァは出ていかないでくれるとは思うが、少しでも歩み寄って付き合っていきたかった。


 今日は帰宅したら夕飯を食べてシャワーを浴びて就寝だ。

 ナヴァにはあらかじめ遅くなるので先に夕飯を食べるようにというメッセージを送ってある。ひょっとしたらもう寝ているかもしれない。


 彼女に負担をかけたくないという気持ちと、彼女に一緒に食事してほしいという気持ちとが、せめぎ合う。言えばきっとどちらでもアレックスの満足のいく方に合わせてくれそうだが、それではこちらが納得しないのだ。


 そんなことを考えながら、玄関のドアを上げた。


 ナヴァは飛び出してこなかった。


 だが部屋は明るい。


 話し声が聞こえてくる。

 最初、ナヴァが誰かと電話で話しているのではないか、と思った。


 ナヴァとは違う女性の声がする。


 嫌な予感がする。


 急いでリビングに向かった。


 信じられない光景が広がっていた。

 あまりのことにショックを受け、手に持っていたバッグを床に落とした。


 リビングのテーブルの奥側に、ナヴァが座っている。これはいつものことだ。


 手前側、アレックスに背を向けるようにして、女性が座っている。小太りの、少し癖のある銀髪をショートヘアにした女性だ。


「あら、おかえり」


 彼女が振り向いた。


「えっ、なんで?」


 浅黒い肌、紫の瞳、嫌というほど見慣れた顔だった。


「なんで母さんがここにいるの?」


 彼女――アレックスの母親であるスーザンが、「お久しぶり」と笑った。




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