蒼き月夜に来たる
ながる
プロローグ:ユメノアワイ
――さらさらと。
足元には水。冷たくはないけれど、後ろから前へ流れていく水流が、かかとに当たってくすぐったい。
何かに促されるように、あるいは、その緩やかな流れに押し出されるように、一歩踏み出した。
ぱしゃぱしゃとたまに蹴り上げながら、のんびり歩く。
春の雪解けが作るような、ごく浅いその流れは少しずつ幅を広げ、やがて野原を流れる川となった。
足は止めずに首を巡らせる。遥か遠くに霞んだ山々。右手奥には
風もない。ざぶざぶと己が足がたてる水音だけが耳に届く。
何処から来たんだっけ?
ふと、振り返る。地平線が見えた。川も、野原も緩いカーブを描いたぼんやりとした線で途切れている。
歩き始めは川じゃなかったような気がしたんだけど……そんなに歩いたかな?
あまり深く考えずに、また前を向いた。
川の先は薄野原の方へと回りこんでいる。あの先が見たい。川の深さは幸いまだ足首ほどだ。もう少し深くなったら、どちらかの岸に上がらなければならないかもしれないけど。
心もち速度を上げる。気分も上がる。そして視線も。
いい天気だ。空が青い。空――
あれ?
空気自体も青みがかってる? んん?
カーブを曲がりきる頃、中天に見えたのは月だった。満月。普段見ているものより少し大きい。
そして。
そして、その月に半分重なるように同じくらいの大きさの、青い……月? 星?
丁度、月に月から見た地球のような月が(しかも半透明の!)覆い被さっている。
その青い月のせいなのか、辺りは陽の昇り始める前の早朝のように薄い青色に染められていた。
さっきまでは気が付かなかった。
――いや。
いや、違う。きっとこれは夢なんだ。
場面転換の怪しさも、夜とは思えない仄明るさも、裸足で川の中を目的もなく歩き続けている理不尽さも、夢だと気付けば何ということもない。だって夢だし。
月は少しずつ青色の面積を増やしている。円い輪郭はそのままに、青い丸が侵食していく。なかなか素敵な天体ショーだ。
青はさらに空気に溶けてその濃さを増す。足元を確認するのももったいなくて、一歩にかける時間が長くなった。止まろうと思わなかったのは、少しでもアレに近づいて傍で見たいと思ったからかもしれない。
三日月よりもずいぶんと細くなった白い月は、青に怯えるようにふるふると揺れて見えた。
あぁ、重なる。
思わず足を止め、見逃すまいと身構える。
ぴたりと重なった青白い月は、その瞬間、世界ごと二重にぶれた――気がした。
眩暈かな、と頭をひとつ振り、視線が足元に落ちてぎょっとする。ほんの目と鼻の先に巨大な穴が出現していた。爪先は穴の端にかかっている。さっき足を止めていなかったら――滔々と穴に落ち込んでいく水に押し出されまいと反射的に身を引いた。
「……あっ……」
しまった。とは続かなかった。でも、そう言いたげな「あっ」だった。引こうとした一歩がまだ浮いている間に右肩に何かが当たり、同時に誰かの声。雑踏でいきなり立ち止まってしまったが為に、後ろから来た誰かが避けきれずぶつかってしまった、というように。
結果、身体は前のめりに、当然足は一歩前に出て――空を、踏んだ。
ひゅっと息を呑む音が
ちょ……待って。さっきまで誰も居なかったじゃない!!
焦りとも怒りともつかない感情が湧いてくる。いやいやいや。これは夢だ。夢のはずだ。大丈夫。きっとびくっとなって目が覚めるはずだから。もしかしたら華麗に飛べるかもしれないし! こう、ぶわっと羽が生えたりして……!
だんだん自分でも何を考えてるんだか分からなくなりながら、ぶつかった誰かを一目見てやろうと身体と首を精一杯捻る。
全速力で駆けていると思われるブーツがひとつ、薄青い空気にぼんやりと溶け込んで消えていく。わたしが見た誰かの残滓は、たったのそれだけだった。
他に見えるのは、それぞれを取り戻そうと離れつつある2つの月。呆然としたのは一瞬で、すぐに胃が浮き上がるような不快な落下感に顔をしかめる。絶叫マシンで叫べる人が羨ましい。自分はいつも歯を食いしばって耐えるだけだ。
……残念ながらそこで目が覚めることはなかった。
なかった。が。見上げていた月がまた2つに戻る前には、周りの青黒い闇にすべてを呑まれたかのように、わたしの意識もふつりと途切れたのだった。
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お読み頂き有難うございます。
このプロローグ、中條利昭さんに音楽をつけていただきました。Youtubeにて全文とともに聞いていただけますので、よろしかったら聞いて(見て)みて下さい。
→ https://t.co/7LHhPKGpYS
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