40.タダイマ
目が覚めたのは早朝だった。
ベッドの上にだらしなく倒れ込んでいたはずなのに、きちんと布団に包まれ、首元のボタンが2つほど外されていた。ベッドサイドにはブーツが揃えて置いてある。
カエルが夜の間に来たに違いない。溜息を吐きながら私の世話をする姿がありありと思い浮かぶ。
喉元に手を当てて声を出そうと試みてみたが、まだ気の抜けた音しか出ない。
仕事、どうしようかな……
注文は取れないけど、他は出来るからクロウに注文を引き受けてもらえればいいかな。2日も休んでるから、ちょっと申し訳ないんだよね。
身支度を整えてしまってトイレついでに顔を洗いに行ったら、帰りに部屋から出てきたカエルと鉢合わせた。
「っと、早いな」
身振りで布団ありがとうと言ったら、ちょっと笑っていた。
「冷たくなってたぞ。風邪ひいてないか?」
自然な流れでおでこと首筋で体温を確認され、どきりとした。
今まであった躊躇いが欠片も無くなっている。
「大丈夫だな。腹減ったろうけど……俺も今からいつものなんでな。……そうか。一緒に見てもらえばいいな」
カエルはひとりで納得して私の手を引いて踵を返した。
ちょっと、色々と確認したいことがあるんだけど、声が出ないので上手く聞けない。
なんだか流されているうちに血を抜かれたりして、気が付くと自分の部屋に押し込められていた。
あれ。おかしいな。どうしてこうなった?
そしていつものように朝ご飯を食べて、いつものように口元に付いたジャムを拭われ、いつものようにその指を
って! 違う! 違うわ!!
全然いつものじゃないよ! 何これ!?
「カエル!」
出ない声で精一杯叫んだら、眉間に皺を寄せて睨まれた。そうそう、その顔。じゃなくてっ。
「朝から何? どうしちゃったの?!」
「叫ぶな。治らなくなる。どう、とは?」
「体温の確認も、今のジャムも……へ、平気になったの?」
きょとんとした後、少し考えてから、カエルは答えた。
「そうだ、な。あんまり考えなくなった。世話がしやすくなっていい」
う。世話。世話?
「人の口元のジャムを拭って食べるのは世話じゃないよ!」
「何だ? 気にしたのか? 気にするな。誰も見てない。嫌ならジャムが付かないように食えばいい」
正論だけど!
開き直りなのかなんなのか、こっちが戸惑うんだよ!
「びっくりするから、確認してからやって!」
ふぅん、と彼は目を眇めた。
「自分はいきなり抱き着いたり、勝手に攫われたりするのにか」
いや、前半は反省もするけど、後半は私悪くないし。
「ユエが勝手に黙ってやらかすんだから、俺も黙って対応して当たり前だろ? ユエの黙らせ方はこの旅行でちょっと解ったしな」
はっとする。
「思い当たるか? もう1度だけ言うぞ。自分の言動には充分気を付けろよ。俺も、信用するな」
やるのはいいが、やられるのは苦手。と見抜かれた、らしい?
実はそれも人によるんだけど……確かに今までカエルはしてこないだろうと高をくくっていた感はある。現にあの浜辺で腕の魔方陣を見せてもらうまではそうだった。はず。
カエルの中で何がどうなったんだろう? トラウマは綺麗さっぱり消えてしまったんだろうか。それならそれは喜ばしいことの筈なのに、私の心が波立つのは何故だろう。
「有意義な旅行だったな」
にっこりと笑うカエルに、私は引き攣った笑みを返すことしか出来なかった。
くそう。昨日の私の心配は何だったんだ。
いや、ある意味正しい不安だったのか。気軽にカエルでぬくもり補給が出来なくなったじゃないか!
「確認したところで、早く食え。仕事、行くんだろう?」
仏頂面な私に苦笑しながら、カエルは告げた。
行くつもりだという事も読まれてるなんて。
「俺も手伝うから、心配するな」
溜息を零したら、少し不思議そうな表情になる彼に、もう敵わないのだなぁと心の中で白旗を上げる。
もうこの先はいっそ押し倒してしまうくらいしか勝ち目がなさそうだ。そしてそんなことをして嫌われたくない自分もいる。
嫌われたくないと思っていることにまた溜息を吐いて、私は仏頂面のまま残りの朝食を食べたのだった。
◇ ◆ ◇
声が出ないことを知っているクロウは、私が普通に宿に顔を出した事に驚いていた。無理しなくていいぞと言われたが、大丈夫と身振りでアピールする。
黙っているより体を動かしていた方が気が紛れるのだ。
一応本職の通訳は治るまでお休みだけどね。黒板とチョークを持ってきたので筆談でスキルアップを目指すよ。単語は大分書けるようになったけど、文になると難しいんだよねぇ。
「注文はこっちに任せて、片付けと配膳だけやっとけ」
カエルは四角いトレーを指先で器用にくるくると回して言った。
取敢えずは仕込みに入るよ。余裕があったらパウンドケーキでも作ろうかな。
厨房で仕込みに忙しいサーヤさんの髪に、クロウが選んだ髪飾りを見つけて、私はほっこりした気分になった。
とんとんと背中を叩いて手伝うことをアピールすると、サーヤさんはちょっと驚いて振り向いた。
「あら。ユエちゃん大丈夫なの? 声が出ないってクロウに聞いたんだけど……」
こくこくと頷いて体は元気だと身振りで表す。
「ホールはカエルが」
「そうなの。相変わらず、仲がいいのね」
ふふっと笑う彼女に私は苦笑いだ。
ともかくやることを指示してもらい、てきぱきとこなしていく。煮物や石窯での焼き待ちの間にパウンドケーキを作る許可をもらった。
材料がほぼ同量で、混ぜて焼くだけなので簡単だ。プレーンじゃ面白くないのでナッツ類を入れてみる。
窯が空いたら次の物と一緒に入れてもらい、後は待つだけ。
甘い匂いが充満して、目を輝かせたクロウがこちらを覗き込んだ。
「ユエ、俺の分あるよな?」
うんうんと呆れながら頷くとにっこり笑って戻っていく。クロウはスイーツ男子だよね。パフェとか食べに連れて行ってあげたくなる。
氷は冬の間に氷室に保存してあったりするけど、庶民の間で流通することはほとんどないらしい。氷自体を使うより、冷蔵庫としての機能を保つために使う方が多いのだとか。
かき氷やアイスは冬じゃないと作れなさそうだね。都会ではどうなのかなぁ。
生クリームを分けてもらって頑張ってホイップしていると、サーヤさんが窯からケーキを取り出した。すぐに型から外して冷ましておく。
それほど量は無いので、賄い分のデザートかな。あとは甘味好きの常連さんに聞いてみよう。
準備を終えると丁度お客さんが入り始める時間になったので、私はカウンターの中へと移動する。
エールは昼間でも出るので、この場所もそんなに暇じゃない。
いつでもお茶が入れられるようにお湯だけは先に沸かしておこうと、コンロに火をつけてポットをかけておいた。
この作業、ちょっと前まで出来なかったのだ。
まず、コンロの火のつけ方が分からなかった。専用の棒で丸く並んでいる焔石の1つを弾いてやればいいのだが、現代のボタン1つに慣れ切っていた私はどうしてもスイッチを探してしまっていた。
さらに言えばIHばかり使っていたので直火が怖いと言うのもあった。
ここにある簡易コンロは火の勢いが変えられない安全設計なんだけどねー。
お湯が沸くまでの間にホールを観察してみると、相変わらずカエルはひらひらとお客の手からすり抜けている。あれ、まだやってるんだ。本気になれば、私の手も届かないんだろうな。
最近はわざと私に捕まってるんじゃないだろうか。そう思うとやっぱり面白くないね。
そういえば、今日は代書屋さんは来ないのかな? いつもならそろそろお昼を食べに来るのに。
私はクロウを手招きしてみた。黒板にジョットさんは? と書いてみる。代書屋という単語が思い出せなかった自分が情けない。
クロウはそれを覗き込んで微妙な表情になった。私はとりあえず伝わったことに安堵する。クロウは人名や簡単な単語は読めるのだ。台帳を付ける宿屋の息子だからかな。
「昨日の夜、酒場で随分飲んでたらしいから……今日は寝てんじゃねーか? ユエも来ると思ってなかったし」
そういえば港町で飲もうって言ってて飲めなかったね。
今度お酒付き合うって書きかけてちらりとカエルを見た。うん。やめよう。
頷いて了解を示して、お湯の沸いたコンロの火を止めた。
それからケーキを食べたがっていたクロウに、先に昼休憩に入ってもらう。全部食べないでよと忠告して。
ホールはあっと言う間に忙しくなって、声を掛けてくれる常連さんに笑顔を返すくらいしか出来なくなる。配膳も片付けも目まぐるしい。
たった2日ぶりだけど、なんだか帰ってきたなぁって気になった。
ちょいちょいかかる声に喉を指差して、腕を交差させ大きな×を作る。
「声が出ないの? 俺が治してやろう」
なんてふざけて手を出してくる人には、カエルが容赦なくその手をトレーで叩き落としていた。
酷い話だが、常連さん達もカエルが居るときに私に手を出すのは自殺行為だと学習しているので、半分お遊びだ。
旅行も良かったけど、こうやって迎え入れてくれる所に帰って来られたのも嬉しい。
元々、都会は住む所じゃなくてたまに遊びに行く所だと思ってる田舎者は、ここの空気が合っているのかもしれない。
もしかしたら、私はこのままここに根を下ろすのかな。下ろせるのかな。
私はカエルの背中を見つめながら、出ない声でただいまと呟いてみた。
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