落ちた先

1.ここはドコ

 湿った空気が肌を舐めた。

 寒いほどじゃないけど、少し冷える。タオルケットと布団はどこへ、と辺りへ手を伸ばして、ゴツゴツ、ザラザラした感触に急速に意識が浮上した。少なくとも自分のベットの上ではない。


 勢いよく開いた瞳に映ったのは、ぼろぼろに朽ちかけた、掌くらいの鳥居のようなものだった。岩肌の窪みの中に、無造作にそれだけがぽつんと置かれている。明らかに人の手で掘ったであろう窪みは祠のようにも見えるけど、それなら鳥居は外にあるだろうし、もっと大きいに違いない。


 どこ? ここ……


 岩肌に沿って目線を上げていく。目の前の岩自体は1mほどの高さで、さらにその上、結構な高さに、ぽっかりと円い穴の開いた天井があった。雰囲気からすると多分、洞窟?

 穴の向こうには空が見えている。青い青い、地球のような月が、私を照らしている――


 ……青い月?!


 唐突に、さっきまで見ていた夢を思い出す。

 青い月を見ていて、誰かにぶつかって、穴に落ちた。

 これは夢の続きなんだろうか? 私はあの穴から落ちてきたんだろうか?

 体は特に痛んだりしていない。あの高さから落ちてきたのなら、怪我のひとつでもしていそうなものなのに……

 そろそろと起き上がって座ったまま手足を確認してみる。


 うん。異常なし。擦り傷ひとつ無い。


 ポリエステル製の毛糸のショートパンツにパーカー。下はTシャツ1枚(そして裸足)といういつもの部屋着姿だが、多少土汚れが付いているくらいで他に異常は無い。

 運が良かっただけなのか……やっぱりまだ夢を見ているのか……

 ぐるりと辺りに首を巡らせて、私はひやりとした。


 背後にはほとんどスペースは無く、知らずに寝返りでも打とうものなら水に落ちていたかもしれない。

 そこは中島のような場所だった。水面まではおよそ3m。月明かりのせいか澄んだ水はほんのり青みを帯びて見える。


 祠の正面側は、闇に溶けて見えなくなるまで水が広がっている。そこから右手を確認すると、岸らしきものがずいぶん向こうに見えた。

 まともに泳いだのは小学生の時くらいだし、それも10mそこそこ。平泳ぎとかでなんとか行けるだろうか……自信ないな。


 何より、向こう側からどこかに出られるという保証がない。一旦諦めて四つん這いになり、慎重に岩の背の方を覗いてみる。

 あ、こっちはなんとか行けそうかも。あちらの半分以下の距離だ。

 少しほっとしたところで、こちらの岸の方には月明かりではない明かりがあることに気が付いた。でなければ、あの奥の方はもっと暗いはずだ。


 人の手が入っているのならば、助けを求めるのも難しくないかもしれない。

 うーん。頑張って岸まで泳ぐか……この場で誰かが来るまで待つか……


 ぱしゃん。


 悩み始めたところで、小さく水音が聞こえた。

 静かだった湖面に波紋が広がってくる。何だろう? 魚?

 音の聞こえた方に目を向けるも、岩陰で見えない。ギリギリまで身を乗り出してもダメだった。

 反対側からなら見えるかな?


 振り返ろうとして、立ち上がれば普通に岩の向こうが見えることに思い至る。

 小魚くらいならまだしも、得体のしれない大魚とかだったら泳ぐのはごめんだ。

 そろそろと岩陰から顔を出す。


 まず目に入ったのは、岸と並行に造られた湖面に降りる階段だった。岸とは言っても岸壁のようにある程度の段差があるので、あの階段は有難い。

 そしてやっぱり人の出入りのある洞窟? 地底湖? らしい。


 さっきの水音の原因はと視線を彷徨わせれば、目の端に淡く光る青が見えた。

 夜光虫のような青が、ふたつ……もっとよく見ようと、岩の上に上半身を乗り出す。

 岸と中島のちょうど中程の所。それは魚ではなく、人だった。

 青く光っているのは両手首。ブレスレットだろうか?


「――あ……の……!」


 思わず伸び上がって声を掛けると、思った以上の反応速度でが振り返り、同時にその右腕が振り上げられた。

 左頬を何かが掠めたことに驚いて、たたらを踏んだ私は見事に岩場から足を踏み外した。


 くるだろう衝撃に息を詰め、目をぎゅっと閉じる。

 豪快に水飛沫を上げ、沈んでいく身体。背中が痛い。

 ともかく水面に上がらなくちゃと薄目を開けて周りを確認しようとしたところで、カッと強い光が満ちた。


 びっくりし過ぎて思わず息を吸い込んでしまう。

 もちろん空気が吸える訳もなく、私はしこたま水を飲んだ。

 しばらく浮上しようともがいたが、すぐに手足が重たくなった。酸欠で朦朧とし始めた意識の中で、青い水の向こうから戸惑い気味に近づいてくる男の人をぼんやりと眺める。


 手の届きそうな距離まで来ても、彼は何か躊躇していた。

 助けてくれるわけじゃないのかな……

 瞼が自然に下りてくる。

 ――と。二の腕を引かれ、身体が浮上していく。

 ああ、良かった。と思ったら、少し意識が飛んだ。


「――お……い!」


 それもすぐ引き戻される。二か国語放送のような、二重の言葉が頭の中で反響している。


 気持ち、ワルイ……


 頬を2、3度叩かれた後、頭を持ち上げられ喉に指を突っ込まれた。

 反射的に水を吐いて咳込む。


 ひどい……


 肩で息をして涙ぐむけれど、相手を睨みつけるだけの力は湧いてこなかった。

 俯いたまま滲む地面から視線を上げられない。


「何者だ? ここで何をしている?」


 音声多重で、早口で言われると意味を拾えなさそうだ。何なの、これ?


「聞こえないのか? いったい何処から――!」


 何が何だかわからないのは私だ。取り敢えず片手を上げて彼の言葉を遮る。


「…………ゆっく……り……。ゲホッ…………聞き取れな……」


 ようやく少し息を整えて、ゆっくり顔を向けると、目の前にはナイフの白い刃が鈍く光っていた。

 パニックを起こしすぎたのか、体力の限界なのか、不思議と怖さは無かった。随分警戒されてるんだと、ぼんやり思う。


「どうして、ここに?」


 溜息と共に幾分警戒を解いた様子で、彼がゆっくりと聞き直してくれる。

 まぁ、どうしてと言われても彼の納得のいく答えは出せそうにないのだけれど。

 私は天井の穴を指さして、とりあえず事実だけを伝えることにする。


「……穴に……落ちて」


 彼は訝しげに眉を寄せると穴を見上げ、私の頭の先から爪先までを舐めるように観察した。


「こんな夜中に? 登山するような格好ではないし、あの高さから落ちて怪我ひとつないと?」

「……とざん…………山……?」


 いえ、川の中を歩いていました。とは言えずに、私は首を傾げる。

 その様子を見て、彼は益々眉間の皺を深くする。


「では、水に落ちたとき何をした?」

「は?」

「水を光らせただろう?」


 いや、光ってびびったのはこっちだし。そのせいでしこたま水を飲んだんだし。

 それに、光ってたのは――


「……が光ったんじゃないんですか?」


 ナイフを持つ手首を指さして聞き返す。

 あれ。光ってない。

 まじまじと見つめるとブレスレットなど無く、そこには刺青のように肌に直接描かれた文様があるだけだった。二重螺旋の中に文字のような、模様のようなものがびっしりと書かれている。確かに遠目に見るとブレスレットに見えなくもないが、黒っぽいそれが青と見間違えるとは思えない。


 え。どうなってるんだろう?


 好奇心が勝って、その手を掴んでもっとじっくり眺めたくなったけれど、伸ばした私の手が触れるより先に腕を引込められてしまった。


「俺が持ってるのは玩具じゃないんだが」


 かなり呆れ声だ。

 むー。もっとよく見たかった。

 よく見ると、胸の真ん中、心臓の上あたりにも拳大の円形の紋様が描いてある。いわゆる魔方陣のような……


 私の視線に気が付いたのか、彼は小さく舌打ちすると、数歩離れたところに脱ぎ捨ててあった上着をさっさと羽織る。作務衣や甚平のように前袷まえあわせのヤツだが、西洋風の顔立ちなのでなんとなく違和感がある。着慣れている風なのがまたそこはかとなく……


 なんて、どうでもいいことを考えていると、身体がふるりと震えた。手足も細かく震えだす。今更ながら、ずぶ濡れでどんどん体温を奪われていくのを自覚する。

 自分で二の腕を擦ってみるが、何もかも濡れていて冷たさしか感じない。


「来い」


 短く告げて、彼が歩き出す。先にはプレハブ小屋のような四角い建物があった。木造で、ログハウスと言った方が近いのかもしれない。


「え……待っ……」


 立ち上がろうとして力が入らず、這って追おうとするも手足の感覚が曖昧で、べしゃりとこけてしまう。

 気配に振り向いた彼を見上げると、盛大に顔を顰めていた。

 そのまましばらく何かと葛藤していたが、結局頭をひとつ振って戻ってくると、遠慮がちに手を伸ばしてきた。

 触れる瞬間、一瞬だけ動きを止めた後は乱暴ともいえる力で引き起こされる。

 そのまま肩に担ぎあげられたが、彼の動きはそこで止まってしまった。


「……? ……どうし……え?」


 ……まさか。


「……おも……い?」


 恥ずかしくて顔が赤くなるが、この体勢は地味に胃を圧迫されて苦しい。運べない程だというなら、這いずっていくから降ろしてほしい。

 石像のように固まっていた彼は私の声にはっとしたのか、ぐるりと振り返ると早足で歩き始めた。




 小屋の中はほんのりと暖かかった。

 彼は簡易な木製の椅子に私を降ろすと、作り付けの戸棚からタオルと着替え――彼の着ているものとおそらく同じもの――を取り出し、小さめのテーブルの上に積み上げた。

 それから壁際に掛けてあった細いロープを反対の壁まで伸ばしていく。


「濡れたものはここに掛けておけ。着替えたら声を掛けろ。外にいる」


 てきぱきと、自分の分のタオルと着替えも持ち出すと、彼はドアに手を掛けた。


「あ、ありがとう!」


 慌ててお礼を口にした私を訝しそうに振り返り、そのまま彼は出て行った。

 しばらくタオル片手にぼーっと小屋の中の暖かさを堪能する。手の感覚がある程度戻ったところで、ゆっくりと着替えに手を伸ばした。


 生成りの、綿よりは幾分ごわついた厚手の生地。サイズは大きめだが、彼に合わせてあるのだろうか?

 私が着ると膝下丈のズボンは下着がないからスースーして心許ないが、そこまで贅沢は言えない。


 言われた通りにロープに服を干そうとして、小屋の中には水を絞れるような場所がないことに気付いた。

 仕方がないので服を持ったままドアを開け、彼を探す。


「着替え終わりました――」


 彼はドアの横で小屋に背を預けて座り込んでいた。じっと見つめていただろう両手から視線を上げて、私の持つ服に気が付くと立ち上がりながら手を差し出した。


「――絞らなきゃ駄目だったな」

「す……すいません……」


 塊をひっつかんで持っていたので、下着まで渡しそうになって無駄に慌てたりしながら、2人で黙々と服を絞る。

 毛糸は思ったより水を吸っていて、足元に小さな水溜りができた。


 中に戻り、濡れたものを干し終えると、彼も濡れた床やテーブルを拭き終え、どっかりと椅子に腰を下ろした。溜息が深い……

 先ほど私が座っていた椅子には新しいタオルが敷いてある。そこに座れということだろうか。

 干してあるものに背を向けるように座っている彼を回りこみ、おずおずと着席する。

 しばしの沈黙――


「こ、ここはあなたの家ですか?」


 重い空気に耐え切れず、思わず口を開く。

 帰ってきたのは冷たい視線だったけど。


「知ってて入り込んだんじゃないのか?」


 ふるふると首を振る。めいっぱい、否定的に。


「ここは何処ですか? ええと、私有地とかだったのなら謝ります。私も目覚めたらここだったので、何が何だか……」

「……帝国……の人間じゃないようだが……」

「えっ? なんて?」


 聞き間違いだろうか。帝国? テイ国? 現代にそんな国あっただろうか?

 じろじろと観察されて居心地が悪い。


「すみません。耳が……ちょっと……なんていうか、に、二重に聞こえるというか……」

「加護持ちか?」


 ちょっと意外そうな、それでいてどこか納得したような顔を彼はした。

 私は全く納得できない。加護ってナニ?!


「出身は何処だ? 東の方の少数民族に顔立ちは似てる気がするが……」

「東……ち、地理上ではここは何処なんでしょう?」


 確かに、日本はアジアの東端の島国だけれども。何だか嫌な予感がひしひしとする。

 彼は眉を顰めて私の瞳を覗き込んだ後、ゆっくりと言った。


「サンクトゥア帝国の南。フェリカウダの牢獄半島だが」


 東西の話なんかじゃなかった。明らかに私の知っている地名じゃない! 地理は得意じゃなかったけど、そんな国が無かったのは確かだ。

 彼がふざけているだけならいい。でも、どうみてもふざけている態度じゃない。

 暖かさになりを潜めていた震えが再び全身に広がる。心臓はうるさく鳴っているけど、頭は芯から冷えていくようだった。


 おそらく、日本の名前を出しても伝わらない。私がこちらの地名をさっぱり理解できないように。本能が告げる。

 どこまでが夢だろう? まだ夢だろうか? 溺れかけて水を吐かされて、まだ目が覚めないのだろうか。


「……おい?」


 青褪めて再び震えだした私に、彼の眉間の皺は深くなる。


「……せん……」


 瞳は真直ぐ彼を向いていたが、もう彼の姿は見えていなかった。


「わかりません。その場所も……どうやって来たのかも……!」


 言葉に、声に出すことで、何かのバランスが崩れて涙が溢れた。


「……っ痛……」


 左頬にちくりと涙が沁みる。

 指で探るとざらりとした盛り上がりが崩れ、指先に赤い色が付いた。


「あまり触らない方がいい。もう血は止まってるだろうが……」


 彼の声にも戸惑いが滲む。

 そういえば、水に落ちる前に何かが頬を掠めた。

 自覚すると傷はずきずきと自己主張を始める。その痛みが益々現実を主張するようで――

 纏わりつく水。突きつけられたナイフ。今更ながら恐怖が込み上げてくる。

 顔を覆う両手の震えは治まらない。呼吸が荒くなる――


「――名は。自分の名も分からないか?」


 この時、この瞬間、本当に自分の名前を思い出せなかった。

 ある種のパニックを起こしていたせいだとは思うけど、一人暮らしでネットと向き合う時間の方が多かったのも一因かもしれない。

 しばし視線を彷徨わせた後、だから私はネットで使っていたハンドルネームを名乗ったのだ。


「……ユエ。ユエ、と呼ばれてました」



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