8.ロテン風呂
軽いお昼をカエルと食べて、さて昼から何をしようかと初めて悩んだ。
と言っても出来ることは限られているので、何が出来るのかと悩んだと言うべきか。
朝読みかけの本を読んでしまうのでもいいかな。
ずっとばたばたしていたので、少しゆっくりしよう。
朝読んでいた箇所を探して本をぱらぱらと捲っていると、食器を置きに行っていたカエルが戻ってきた。
「あ、おい、先に『時の鐘』を覚えろ」
そうだ。鐘の時間の数え方を聞くんだった。
抽斗の中から紙を1枚出して何度か折り畳むと、カエルはすっと1本横線を引いた。続けて線の上にいくつか短い縦線を加えていく。
「春の始まりの日の日の出時刻を基に、朝の1刻の鐘が鳴る」
幾つ目かの縦線の上にカエルは丸を三つ描いた。いち、にぃ、さん、と私は小さな縦線を数える。
「朝の6時くらいが1刻ってことかな……」
次と次の縦線の上には丸ひとつ。その隣に丸3つ。
鐘3つと1つが2回。それがワンセットだった。
「だいたい1刻の鐘の頃に起き出して、商売人は2刻を目安に店を開ける。昼が3刻で、訪問客などは4刻の頃。5刻が夕食の頃で、酒場などが閉まるのが6刻という感じだ。この村には無いが、大きい街なんかだと外門があって、1刻と6刻で開け閉めされてる。夜中には入れないってことだ」
21時で閉まる酒場って、なんて健全。
「夜中はさすがに鳴らないんだね」
「寝れないだろ」
書かれた線をにじゅういち、にじゅうにと数えてふと違和感を覚えた。
「カエル、線1本多くない?」
「ん?」
25時まである。
「あってるぞ。0から始まって25まで」
変な顔をした私に、カエルも妙な顔になった。
1日25時間! 1時間当たりの時間の長さってどうなんだろう?
お腹の空き具合とか変わらない気がするから、大きくは違わないよね。
昨日も特に時間に違和感は感じなかったし、1時間て微妙?
「ねぇ、1年って、何日?」
また唐突な質問に、カエルが瞳を揺らす。
「ひと月が28日だから……364日、か?」
1ヶ月が28日って、太陰暦っぽい? 1年の日数はほぼ変わりないんだ……でも、1日1時間長いんだから実質15日程長い感じ?
計算上は地球じゃないってことになる。
「……そう」
数歩下がって、ベッドにぽふりと腰掛ける。
『帰る』という選択肢を今度こそ塗り潰された気分だ。真剣に身の振り方を考えよう。
いきなり来たのだから、いきなり帰れるということもあるだろうが、なんとなく、あの夢の中の『あっ』が離れない。あれは、何か不測の事態だったのだ。
「ユエ?」
訝しげなカエルの声に我に返る。
「あ。うん。大丈夫。教えてくれてありがとう。だいたい解った」
「本を読むなら、俺もちょっと時間貰おうかと思ってたんだが……」
何か心配させてしまったらしい。後半言い淀まれてちょっと申し訳ない。
「いいよいいよ。カエルもすることあるよね。大人しく本読んでるから大丈夫だよ!」
「そう、か? 具合が悪いとか……」
「ないない。元気元気」
「……多分、前庭にいるから、何かあったら呼べ」
前庭かぁ。ここからだと見え辛いな。
「じゃあ、談話室にいるよ。あそこからの方がよく見えそうだし。窓際にいればそっちからも見えるよね?」
「部屋にいてもいいぞ」
言わんとしていることが伝わったのか、カエルはちょっと眉を顰めた。
「向こうの方が景色も綺麗に見えるし、本に飽きても暇潰せそう。飽きたら戻ってくるよ。気にしないで、いってらっしゃい」
手を振って、カエルを送り出す。
それからのんびり本と紙と色鉛筆を持って談話室に向かった。
談話室のソファからクッションをひとつ拝借して、靴を脱いで行儀悪く窓際まで上がり込む。
まだ人影は見えなかった。
今日もいい天気で、視線を移すと水道橋が綺麗に見える。ちょっと気分が上がった。
物語を2つ読み終わって庭に視線を向けると、少し開けた芝生の上にビヒトさんとカエルが見えた。
ビヒトさんは上着を脱いで袖のボタンを外していて、カエルは屈伸運動したり、体を捻ったりしてる。あれ。カエル黒い手袋をはめてる?
何が始まるんだろう、と興味深く見ていると、2人とも左腕をクロスするように軽くぶつけてから後ろに飛びのいた。
乱取り、という感じでもなく攻撃はビヒトさん、それを避けるカエルという風だった。
最初はゆっくり、徐々に早く。次第にビヒトさんの手数が増えていく。
もしかして、ビヒトさんて強い? 動きがとても綺麗だ。
テリエル嬢が言っていた『手練れ』って、彼のことなんだろうか。
ひょいひょいと余裕そうに避けていたカエルが、真剣な顔になり、蹴りの1つを避けきれずに受け止めたところで、雰囲気が変わった。
今度はカエルも攻撃を加える。
連続の蹴りはスピードが乗っているものの、軸が少しぶれている(と思う)。早さに体が引きずられる感じというのか。
そういう隙にビヒトさんは何度か軽い攻撃を当てる。腰の辺りだったり、肩を押してバランスを崩させたり。
慣れてきたのか、カエルのぶれが減ってくると、ビヒトさんは突っ込んでくるカエルから目を逸らさずに足元の木刀のような物を蹴り上げた。木刀はすんなりと彼の手に収まってカエルを横薙ぎにする。
カエルは避けるでもなく、左腕で下から掬い上げる様に軌道を逸らし、そのまま鳩尾に拳を叩き込むよう腕を振った。
それを難なく避けて、軽い蹴りで牽制を入れるビヒトさん。
苦しい、と思ったら息を止めていた。自分の拳にも力が入っている。
呼吸を思い出して、何でビヒトさんの方が木刀なんだろうと不思議な気持ちで見ていたら、完全にバランスを崩したカエルの頭上に木刀が下りていく。
うわっと目を瞑る前にきらりと光りを反射するものが木刀を受け止めた。
それがカエルの腰の後ろにあった短剣だと思い当たるのに少し時間がかかった。
彼は躊躇うことなくビヒトさんに剣を振るう。
小さくうわ、うわっと声が出るほど冷や冷やした。
ビヒトさんはカエルの剣を受け止め、いなし、避ける。
最後に、カエルの懐に入り込んで伸びきった腕を絡め取ると、足払いを掛けそのまま地面に押し倒した。ぴたりと木刀が喉元に突きつけられる。
うわ。ちょっとカッコイイ!
ぱちぱちぱちとひとり拍手していると、仰向けのカエルと目が合ったような気がした。
休憩を挟みつつ、何度かそんな組手を繰り返す。
カエルがビヒトさんに上手く誘導されているのがだんだんわかってきた。
同じ時間動いているはずなのに、カエルの方が息が上がるのが早い。基礎体力の差ばかりではない気もする。
結局最後まで彼らの組手を見学してしまった。
4刻の3つの鐘が鳴ると、彼らは右手の拳をぶつけて組手をやめ、体に付いた草や土を軽く払って館の方に戻ってきた。
全く動いていない私も何故だか軽い高揚感があって、荷物もそのままにブーツを履くとホールまで駆け降りる。
階段下まで来ていた彼らに、私はそのままダイブした。
一度ビヒトさんの腰辺りに抱き着いて、がばりと起き上がると、ぎょっとしている2人の顔が見えた。
ビヒトさんは両手をばんざい、とホールドアップしている。
構わずに両手をぎゅっと握って力説の体制をとる。
「――すごい! ビヒトさんの蹴りとか、すごい綺麗! ああいうの、初めて見ました! いつもやってるんですか?! 型みたいなのとかもあるんですか!?」
キラキラした私の瞳に、先に我に返ったのはビヒトさんだった。
乱れた髪を撫でつけながら、まず私を
「年頃の娘さんに抱き着かれるのは、老いぼれとしては嬉しいのですが、やめた方がよろしいかと。特に汗で汚れた上に坊ちゃまに虐められた後には少々きつう御座います。それと、型などは特に御座いません。すべて自己流で恥ずかしい限りです」
「ビヒト、坊ちゃまはやめろって言ってるだろ。それに、虐められたのは俺だ。ビヒトには掠りもしてないじゃないか」
憮然としてカエルが口を挟む。
うっかり坊ちゃまと口を滑らすほどには、ビヒトさんも何か混乱しているのかもしれない。
「カエル様も今日は少し速さがありましたね。初めは体がついてきていない感じではありましたが……」
「久々だったしな。動けるのは気持ちがいい。また頼む」
どこかすっきりしたような顔でカエルが頷く。
「お風呂で汗を流してきてはどうですか。風邪でもひかれては私が奥様に怒られてしまいます」
「そう……だな。ビヒトは?」
「私は仕事がございますので、体を拭くのに留めておきますよ」
少しおどけたビヒトさんも素敵だ。この穏やかそうな紳士のどこにあの激しさが潜んでいるのだろう。
そして、魅惑のワード。お風呂。
「お風呂って、温泉?」
「左様でございます。温泉を御存じで?」
「大好きです♪たまに旅行で行くのが楽しみで。ね、一緒に入ってもいい?」
「――は?」
カエルは本当に意味が分からないという顔をした。
ビヒトさんは苦笑を通り越して、爆笑を精一杯こらえている様な顔になっている。
「え。沐浴着着て入るんでしょ?」
何か着て入るのだから、混浴は当たり前だと思ってるんだけど。
「着てるからってっ! 夫婦でもあるまいし!」
ようやく意味が染みた、というようにかっとカエルの顔が朱に染まった。
こういう反応は新鮮だ。カエルは表情の動きが少ない。
「夫婦ならいいの?」
ちょっと、いたずら心が疼いてしまった。
私はにっこり笑う。
「じゃあ、カエルと夫婦になるから、一緒に入ろ♪」
「そういうことを軽々しく言うな!」
ちょっと本気で怒られた。あれ。こういう
「んー。それでもいいと思ったんだけど……じゃ、ビヒトさんも、3人で入ろう! あ、テリエルさんも誘って、皆で入ればいいのかな」
「お嬢を誘うなら、お嬢と入れよ。俺たちがお嬢と入るなんてありえないだろ」
テリエル嬢なら入りそうな気がするんだけど……
「お風呂は交流の場でしょ? 皆で入るのがいいんじゃない。ん。でも、ビヒトさんはもしかして奥さんとかに怒られる?」
「寂しい独り身ですので、誰かに怒られる、ということはございませんが……」
自分に矛先が向かって、ビヒトさんはちょっと及び腰になる。
「じゃあ、ビヒトさんのお嫁さんでもいいよ! えっと、ビヒトさんより家事ができるか不安だけど……」
がばっと両手を広げてビヒトさんに飛び付こうとして、その両腕を抑え込まれる。
「やめろって、言われたばかりだろ! 風呂に入りたいだけで嫁に行くやつが何処にいるんだっ」
ここにいます。
いいじゃないか。永久就職。職の無い私は切実なんだ。美味しい話に飛び付いて何が悪い。
私は腕を掴んでいる黒い手をむーっと睨みつけた。
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