第29話 シロイは別の顔
そんなわけで、企画書も通り、我々は今年のワインを数十本確保することに成功した。予算がないので、そう高いワインは買えなかったが、要は気持ちである。このワインを、赤子の成人祝いと、結婚祝いの際に飲んでもらえるように、伝えるのが残った仕事だ。
今日、出産してから退院する女性がいるとのことで、我々は産婦人科のナースステーションに行った。事前に話は通してあった。このナースステーションの前で、女性があいさつをして、赤子を抱いて夫と共に新しい家族の増えた家へ戻っていくということだ。
早速我々が向かうと、今回ワインを渡す女性――アカネさんは、嬰児を白いドレスに着替えさせて、医師や看護師たちにあいさつをしていた。白いドレスは、妊娠中に少しずつかぎ針で編み進めた力作なのだという。
母の子供への愛情はすごいな。まだ生まれてもいない子供に、ここまで愛情を注げるものなのか。
そんなことを考えていると、シロイがワインを二本持って、彼女たちに近づいた。
「あ、シロイ先生。入院中はお世話になりました。先生が話し相手になってくださったから、 初産(ういざん)でも怖くありませんでした。私は持病もちで、うまく生まれてくれるか心配だったんですけど、元気な赤ちゃんが生まれてきてくれて本当によかったです」
「持病があると、不安ですよね~。お力になれてよかったです~」
そうか、シロイはこの女性の話し相手になっていたのか。休憩中もつかまらないときがあったが、こうした仕事を自発的にやっていたのか……。
シロイ……お前の優しさが、私は好きだ……。
そんな私の思いなど知らぬシロイは、元気よくワインを差し出した。
「『赤ちゃんに心からの祝福を ~ワインで将来お祝いを~ 』というイベントですっ! どうか、赤ちゃんが成長して、成人になったとき、結婚式のときに、この生まれ年のワインを飲んでお祝いしてください~」
「まあ」
アカネさんは、涙ぐんだ。
「そこまでお祝いしていただけて、この子も喜びます。きっと、このワインと先生たちのお気持ち、大切にいたします。そして、無事に育て上げてみせます」
彼女は、ワインを受け取るときに、嬰児をシロイに抱かせた。シロイは、そっと赤子を抱くと、笑顔で赤子をあやした。その様子が、なんとも様になっていた。まるで、本当の母親のようだ。
「シロイ、あやすのがうまいな」
そっと声をかけると、シロイはちょっとまつ毛を伏せてから、それでも元気よく言った。
「そうですか~? きょーかんもだっこします~?」
「いや、遠慮しておこう。慣れていないから、落としそうで怖い」
「パパさんたちは、みんなそう言うんですよね~。慣れるとかわいいのに~」
そうそう、とアカネさんも笑った。アカネさんの旦那さんは頭をかいている。
パパ……シロイ……私も、もしかしたら、シロイとの間に……と、何を考えている! 告白すらしていないんだそ!
私は赤面していた。シロイがすかさず言う。
「きょーかん、顔真っ赤ですよ~」
お前のせいだ! ……いや、正確には私の妄想のせいだ。すまない、シロイ。
アカネさんたちは、何度もお礼を言って帰っていった。見送るシロイの元気がない。
私は、鼓動を抑えつつ尋ねた。
「どうした、シロイ。どこか変だぞ」
「え……そうですか~? いつも変ですよ~ 」
そうか、お前には自覚があったのか……。
いや、それより彼女の落ち込み方が気になる。あの、モモ先輩からゲルプさんの話を聞いてから、余計に彼女が気になってきた。あまりに不憫な境遇だ。どうにかしてやりたかった。
そして、「転魂」には従えない。医師としても、シロイを愛する男としても。どうにかして「転魂」計画を潰すことができれば……。あれは医療ではない。「医療という名の殺人」だ。
私は、精一杯の優しさを込めて、穏やかな口調で言った。
「私は、お前の教官だ。教官として、悩みを聞いたり話したりしてもらえる存在でありたい。シロイ……実は、抱えているものがあるのだろう? 私にも、おおよそわかる。知ってしまった事実がある。詳しくは言えないが、お前の失ったものを、知っているつもりだ……」
シロイは、はっとした表情を向けた。その顔が物語っていた。
何をご存じなの? 信用してもいいの? 教官は、味方なの?
私は、シロイの肩を叩いた。
「私は、味方だよ。信じてくれ」
シロイはうつむいた。そして、しばらく考え込んでいたが、意を決したように、顔を上げた。その顔は、今まで知っていたシロイとは別人の顔だった。しっかりした、家族を支える妻であり母である責任を持つ女性の顔だ。いつもの間抜けさは、どこかへ追いやっていた。
「では、会っていただきたい人がいます」
「わかった、会おう」
その時、シロイがインカムでどこかへ通信を入れていた。それから、こう言った。
「仕事を定時に終わらせます。終わった後、落ち合いましょう。エアバス停で待っています。そこから、いつも面会に行くんです」
「この間のミスコンの時に言っていた、『大切な人』の面会か」
「そうです。でも、もしかしたら、教官を巻き込んでしまうかもしれません……私個人の問題に。厚生省も絡む問題に」
「かまわない。私は、お前の教官だ」
シロイは、ふっと笑顔を浮かべた。彼女の抱える悲しみが、心から流れて涙になったように、一筋の雫が薄いブルーの目からこぼれた。
「ありがとうございます。こんなに優しくしていただいたこと、もうずいぶんなかったから。嬉しいです……」
私は、ハンカチを取り出して、渡した。シロイは礼を述べて、涙を拭いた。
「これ、あとで洗ってお返しします」
「気にするな。私はハンカチを洗うのが好きだ」
シロイはようやく笑って、私にハンカチを返した。
「それでは、またあとで」
我々は部局へ戻り、私は執務室へ入った。シロイの涙がしみ込んだハンカチを、デスクの上に載せて乾かしているうちに、シロイの豹変ぶりが気にかかった。
私が知っているシロイは、別人なのか……?
どんなシロイでも、私は受け止めよう。好きだ。やはり、好きなのだ。
窓の外を見ると、雨がしとしとと降っていた。エアバス停で待つシロイが、風邪をひかないように早めに行くか。
私は、さっそく仕事にとりかかった。何度も窓の外を見ては、シロイを思った。
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