第8話 ドクトル・リラ

 そのとき、ギュギュギューンと爆音が鳴り響いた。そして、こちらへ近づいてくる。

 何事かと身を乗り出せば、個人用の大型エアバイクであった。まあ、昔で言えば「ハーレー・ダヴィッドソン」のようなごついマシンだ。そこに、ヘルメットをかぶった人物が二人乗りをしている。そして、私の目の前に乗りつけると、後ろに座っている毛皮のコートをはおった人物が、びっくりして窓から思わず身をひいた私の方へと軽々とジャンプした。


 ここは五階だぞ! 危険な真似をするな!


 そう思った瞬間、先ほどの振り払った「シロイについで会いたくない教え子」の顔がまたもや浮かんだ。これは、もしや……。

「ドクトル・リラ、お怪我はありませんか」

「大丈夫、下がりなさい。……ふうーっ、生きてる……生きてるって感じですわ!!」

 ……確定だ。

「何をしに来た、リラ」

 リラは、淡いパープルのヘルメットを取って、ふるふると顔を振って、まとわりつく髪を振り払った。ジャンプして興奮したせいか、顔がほてって赤い。そして、その茶色の髪をまとめたシニョンを、手でゆるくまとめなおした。

「もちろん、おわかりのくせに。わたくしからのチョコレート、いかがでございましたか?」

 ……お前だったのか。

 このリラは、私がシロイと同期で教えた教え子である。同期のアルツトライン同士は、「 医友(いゆう)」という友情関係を結ぶが、この二人は仲が良くなかった。もっぱら一方的にリラが落ちこぼれのシロイを馬鹿にしていた。変人基準から言えば五十歩百歩だと思うのだが、同族嫌悪というものなのかもしれない。

 リラは心臓外科医局に入ってきたものの、それは心臓血管外科という最難関の医局で臨床経験を積んで国家試験に臨みたいという、異様に高いプライドのためであった。ゆえに、首席で合格した後は、さっさと本来の希望である大学院へ行ってしまった。このため、研究室という連想で、先ほどもリラを思い出して震えたのである。

 というのも、このリラは、シロイとは別の意味で変わっているのだ。主に、解剖学的な観点からであるが。

「チョコなどいらん。持ち帰れ。それよりどうやってここに入った」

「カードキーを偽造して、パスワードは我が家の情報局の局員たちに、一日で調べさせましたわ」

 リラはしれっと言ってのける。お前、それは犯罪じゃないのか……。パスワードはもっと厳重なものにしなければ。それより、指紋認証にしたほうがいいのか。

「教官、お久しぶりですわ。お会いしたかったこの気持ち、まさに教官の鎖骨と 尺 骨茎状突起(しゃっこつけいじょうとっき)のようにまろみを帯びて尖っておりましたわ」

 リラは恍惚として言う。ちなみに、尺骨茎状突起とは、いわゆる小指側の「手首の出っ張り」のことである。

 そう、彼女は骨フェチなのである。人を見る時は骨を見よ、が彼女の信条だ。そして興味が高じて、大学院の解剖学研究室で、骨格標本と戯れているとかなんとか。

「変わらんな、リラ。いや、褒め言葉じゃない。大いに変われ」

「それが、変わりましたのよ、教官」

 リラは、眼鏡の位置を指で直す。これはダテ眼鏡で、私とお揃いにしたかったという彼女は、名門医師一家(親兄弟みんな医者だ)付属の情報局を使って、眼鏡の購入先を調べ上げ、そこで作らせたという。彼女の裸眼は六・〇だという噂だった。古代人か。

「ほう。どこかだ。私には、全くわからんが」

「……教官の、筋肉も好きになりましたの! 特に上腕二頭筋が最高ですわ!ああ……」

 リラはうっとりとし、私はげんなりした。全く変わっていない。確かに私は休日にはジムでそれなりに鍛えてはいる。だが、普段スタンドカラーで覆っているはずのこの腕のことをなぜ知っている。

「ほら、この写真、最高でございますわ」

 リラは、毛皮のコートの下の白衣のポケットから、一枚の写真を撮り出して私に見せた。


 隠し撮りされている! しかも、浴室でシャワーを浴びて上がり、バスタオルで体を拭いているところだ! あわてて確認したが、上半身だけだ。よかった……いや、よくない!


「情報局の局員に」

「……お前には、良心と羞恥心がないのか」

 私は、ずきずきと痛み始めたこめかみを指二本でぎゅっとつかむように押した。心臓の次は頭か。勘弁してくれ。

「上腕二頭筋って、人体の中で食べると一番おいしいんですってよ。猟奇殺人犯の手記を読んで、興味を持ちましたの。わかる……わかりますわ! 見ただけでも、おいしそう」


 カニバリズムか! これは……いつか、「食われる」。


 私は、ドン引きした。リラは、青みがかったパープルのブラウスのフリルをもてあそびながら、妄想の中で私を食っている。

 ちなみに、彼女はパープルを好むのだが、それは私が首席の彼女に、いやいやつけた「べステナーメ」が、「リラ」だったからだ。別に意味はない。ただ、「べステナーメ」申請最終日に、適当に決めてやろうと、目を閉じて新聞を広げ、ランダムにめくって、適当なところで指差した記事が、「ニホン」の伝説の為政者、「ムラサキ卿」を回顧する記事で、これにちなんで「リラ」(紫)とつけたのだ。保守的な彼女の一家からはたいへん感謝され、お礼としてアメジストの大きな結晶が贈られてきたが、即売り払って、モモ先輩と飲みに行ったのは内緒である。

「いいから、もう帰れ。私は忙しい」

「あら、窓際部局で忙しいですって? 」

 リラはちくりと痛い所を刺す。そう、彼女は解剖学的な興味から医者になったのであって、人を救おうとか、思いやり、やさしさ、「医は仁なり」という意識はまったくないのだ。シロイとは別の意味で、医者に向いていない。

「……怒るぞ」

「まあ、浮き出た血管も素敵。シロイがうらやましいわ。あんな、女として最底辺のシロイが、教官と一緒にいられるなんて。悔しくって」

 リラは、またもちくりと嫌味を言う。私は、かちんときた。シロイ……「医友」のシロイを、あのシロイをそんな風に言うなど許さん。確かに、あんな格好だが……しかし、シロイは、リラと違って人間性はとても深みがあるのだ。私は、「結婚式」で患者の女性からもらい泣きしたシロイを思い出した。


 お前は、赤の他人の幸せのために泣けるか、リラ。


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