2月: バレンタインの災厄

第7話 「招かれざる」チョコレート

 その日、私は溜まっていた事務仕事を片づけるために、少し早めに部局に出勤した。事務仕事とは、上層部からの「お墨付き」を得た、シロイ曰く「おもてなし医療」の計画書である。これをシロイが作って見せに来たのだが、誤字脱字と古い表現が多すぎて、書類としての体裁も整っていなかったため、私が鬼になって赤を入れ、書き直しをさせるのだ。

 ここ「ノイヤーパン」では、既に「ニホン」国のことは昔話だが、シロイはなぜかこの時代の古語をよく知っている。その能力を、仕事に向けろ。

 とにかく、私は一抹の期待を抱いている自分に気づかないふりをしようとしていた。それは、今日が「バレンタイン」だからだ。

 この風習は、「ニホン」からのものだが、廃れずに残っている数少ない習慣のひとつだ。ただ、女性が意中の男性にチョコレートを贈るのは変わらないのだが、男性は「お返し」に、その日のうちに花を渡す。それも、彼女の「ナーメ」か「愛称」にちなんだ花を。

「ナーメ」とは、いわゆる本名であり、この国では色の名前、あるいは時々女子では花の名前をつける。周囲と重なる場合は、女子に限って花の名前の「愛称」を用いる。色と花は、古来この国では重要視されてきた。ゆえに、伝統と格式を重んじる医療業界にも「ナーメ」制があり、医師国家試験に首席で合格した者に、「べステナーメ」が贈られるのだ。これは名誉なことで、生涯にわたって名乗る「通称」になる。「べステナーメ」は色の名前だが、それ以外の医療従事者も色の「ナーメ」を半強要されることが多い。普通の「ナーメ」と区別するために、正式には「べステナーメ」には「ドクトル」をつけるが、普通口語では略される。

 ちなみに、私の「クロイ」というのが「べステナーメ」(つまり、私はその年の国家試験の首席だったのだ)である。これは、代々教官がつける。私の名付け親はモモ先輩で、自分の田舎の風習通り、古風な「ニホン語」からつけてくれた。ちなみに私の本名のナーメも色の名前で、「シュヴァルツ」(黒)である。だが、普通は「クロイ」で通る。

 医療業界の「ナーメ」制は、この「聖ルカ病院」が「ニホン」時代に初めて導入し、今では全国の医療機関に広まった。「聖ルカ」という、医者と画家の守護聖人の名が病院の名前にあることからも、医療と色が分かちがたく結びついていることが分かる。

 まあ、そういうわけで、昔からの習慣「バレンタイン」を、古風なところのあるシロイが知らないはずはない。別に、チョコレートをもらいたいわけではない。ただ、気になるだけだ。

 気にしなくてもいいはずなのだが、高鳴る心臓に「もしかしたら」とささやく悪魔がぶら下がっている。この病をなんとかしないと、本当に死ぬ。

 大学の研究室で、詳しく調べてもらおうか……。そこまで考えた時、ある女医の顔がぼんやり浮かんだ。私は急いで打ち消した。


 シロイについで会いたくない教え子だからだ!


 とにかく、ドアを開けて仕事をしなくては。私は、特別に執務室として個室を与えられている。カードキーは手の中だ。私はドアのカードスロットにそれを差し込み、パスワードを入力した。

 室内に入ると、デスクの上に何か載っている。昨日、きれいに整頓して帰ったはずだが。私はいぶかりながら近寄る。

 置いてあるのは、ライラックカラーの包装紙でかわいらしくラッピングされた包みだ。しかも、ハート型である。

 チョコレート!

 シロイ……まさかな。いや、それよりどうやってここに入ったんだ? 私は、キツネにつままれた気分で、とりあえず窓を開けて換気をしようとした。真冬の朝のきんとした空気は大好きである。さあ、頭を冷やして仕事を片づけよう……。


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