第26話 奇人医師グレイの秘密

「ようこそおいでくださいました。初めましてと申し上げます。ごきげんいかがでございますか」

 昼前に会った循環器内科医で、ブラウ長官のプライマリードクターのグレイは、深々と頭を下げた。私はあわてて彼に声をかける。

「ご丁寧に痛み入ります。しかし、頭をお上げください」

「ありがとうございます。それでは、クロイ先生の御前に座らせていただきます。たいへん光栄でございます」

 グレイは、ぺこぺこと頭を下げる。どうにか目の前の椅子に座らせると、彼は今度はこんな自己紹介を始めた。

「 拙(せつ)がグレイでございます。以後お見知りおきをお願いいただけます栄誉に浴することは可能でございましょうか」


 グレイは、やはり変人だった。腰の低すぎる変人――「卑下の権化」であった。

 腰が低いのはローザも一緒だが、このグレイは低すぎて腰が抜け落ちそうだ。

 それに、どうかすると「慇懃無礼」に聞こえる。

 おまけに、一人称が「拙」である。あんたは噺家か。

 私は、昔の大文豪の作品に登場する「野だいこ」を思い出した。「赤シャツ」、いや「青シャツ」はブラウであろう。なにしろ彼は、本来の「ナーメ」、グラウ(灰色)が「ブラウ」(青)に音が近いということだけで、恐縮して変更届を提出して、同意義の「グレイ」にしたのだと、モモ先輩が語ってくれたのだ。彼は腰が低すぎて、モモ先輩の好みに合わなかったらしい。


 そんな出会いだったが、私はとりあえずミーティングを始めた。ツッコミが追い付かないからだ。

 ブラウ長官の薬の投与は効果を治めてはいるが、長官が服用もままならぬほど忙しいということで、手術の打診があったらしい。

 ブラウ長官の病名は、「血管 攣(れん) 縮(しゅく)性狭心症」。きっかけがあって発作が起こる「労作狭心症」とは違い、安静時に発作が起こる病だ。心筋梗塞に至る可能性もある。

 その恐れをなくすために、私がメンバーに加わったというわけだ。

 私は、カテーテル治療に、最近主流になったオフポンプ冠動脈バイパス手術(人工心肺を使用しない手術)の可能性を出し、今後のミーティングで検討していくことにした。


 その時、グレイの胸元からアラームが鳴った。

「クロイ先生、ちょっと失礼いたします」

 彼は、デジタル懐中時計を取り出した。どうやら、ブラウ長官にまつわる人々は、皆古めかしいものが好きらしい。

「おお、もうこのような時間でございますか! 」

「何時ですか」

「十二時です」

 そう答えると、恍惚とした顔で、彼は白衣の下に下げているロケットペンダントを開けた。そして、異様にねっとりした、持って回った言い回しでこう言った。

「先生、これは拙の一人娘なのでございます。え、鑑賞なさりたい? 鑑賞なさりたいとおっしゃいましたか? 鑑賞していただけますよね、そうでございますよね? 」

 ……結局、あんたが見せたいだけだろう。

「いやあ、お恥ずかしいなあ、仕方ありませんなあ。この子は拙に似て、かわいらしくて、愛らしくて、優しくて、貴婦人のように優美で……」

 とまあ、彼は知っている限りの賛辞を駆使して、自分の娘を誉めたたえはじめたのである。

 ――拙に似て、か。そこまで言うか。確かにグレイは、なかなかの美中年である。だが私の目はごまかされない。彼の顔は、人工的過ぎる。つまり、整形美オヤジと踏んでいる。

「まあ、そんなわけで見ていただけますね? 」

 そこだけ、異様に有無を言わせぬ強い口調でグレイはたたみかけた。どれだけ娘が好きなのだ。

「拝見します」

 この世界、社交もお世辞も大事である。私は、そのうるわしの乙女の写真を見ようとペンダントの中をのぞきこんだ。

 ……とりあえず、まばたきを繰り返してみた。そして、もう一度のぞいた。目をこすった。だが、そこにある写真に写る少女の顔はそのままだ。

 般若だ。鬼女だ。「ニホン」時代から伝わる古い能面が醸し出す不気味さ、陰鬱さが、醜となって少女の顔に取りついていた。

 美しい乙女でないのは確実だ。

 私は反応に困った。見せてもらった以上、何らかのリアクションが必要だ。グレイは、そわそわして、体を乗り出して、荒い息が聞こえるところまで近づいてくる。

「とても、仲むつまじそうなお子さんですね」

「かわいい」などとは断じて言えない。私は事実しか言わないのだ。

 当てが外れたような顔をしながらも、グレイは語り続けた。

「そうでしょうとも、さすがはクロイ先生! 拙の娘はサクラと申します。桜の花言葉は『優れた美人』、『精神美』! まさに娘にふさわしい! そうでございましょう? ねえ、そうでございましょう? 」

 グレイは笑顔で、賛意を強要してくる。これは、「同意押し付け卑下変人」だ。

 私は、伝家の宝刀、「困った時は愛想笑い」モードに切り替えた。本当は笑いたくもないのだが、シロイの一件が関わったこの計画で、彼の機嫌を損じるわけにもいかない。

 シロイ……私は苦労しているぞ。あとで、菓子で慰めてくれ……。

 だが、今この瞬間、シロイはうきうきと女子たちの中に混じってランチタイムだろう。私は泣きたくなった。

「今日は、これで終わりにしましょうか」

 昼時でもあり、私は彼の陶酔を鎮めたくて、ミーティングを強制終了させた。

「そうでございますね、次の予定も大切ですし。え、お聞きになりたい? お聞きになりたいんでしょう? 」

 ……だから、あんたが言いたいだけだろうが。人をダシにするのはやめろ。

「……なんのご予定ですか」

「職場体験にっ! 拙の娘がっ! サークーラッ!がこの病院に来るのですよっ! 」

 私は黙ってハンカチを取り出し、興奮して熱弁をふるうグレイの口から飛んできた唾液の飛沫を拭きとった。感染症予防と、単に汚いからだ。

「サクラは、将来の夢が拙の嫁……拙の妻になってくれるのですよ! 『わたし、パパのお嫁さんになる』って、あのすずやかな声でささやいてくれるのでございますよ! たまらんですなあ……」

 おい、本気か。近親相姦は、古今東西タブーである。いとこ同士の結婚でさえも、「血を薄くする」のは現代遺伝学の常識である。誰か、このオヤジの病的な子煩悩をどうにかしてくれ……。

「しかし、グレイ先生の奥様が」

 と言いかけると、彼の目が一気に死んだ。

「拙は捨てられまして……拙の夫人は拙のことをお気に召さずに……拙が、どれだけ尽くしても理解してくださらず、拙に対して罵詈雑言を……。そこを救ってくれたのが、優しいサクラなのでございます……」

 私は地雷を踏んだらしい。グレイは完全に屍になっていた。自分の妻に敬語を使うとは、卑下もここまで来ると大したものだ。いや、グレイ夫人が彼をここまで貶めたのかもしれない。

 私は少し気の毒になって、肩を叩いて言った。

「まあ、昼でもいっしょに――」

「ああああっ!」

 グレイは奇声を上げた。ぱっと彼の顔を見ると、鼻がない! 昔、北の国の名作文学で、こんな事件があったな。朝起きたら鼻がなかったという八等官の話だ。

 鼻は、彼の整った顔の中でいちばん美しいが、同時に一番整形臭がぷんぷんする部位である。

「拙の鼻が落ちてしまいました……」

 グレイは、顔に二つの穴だけが残った状態で、急いで床から鼻を取り上げた。

「じ、実は整形しておりまして。特に鼻が並外れて大きくて、それがコンプレックスだったので、鼻骨を削り、鼻を付け替えてシリコンノーズにしたのでございます。それをきっかけに、顔面改造を繰り返しまして、まあ、このようなことに……。最近では、昔つけたパーツも傷んできて、時々剥離するのでございますよ。申し訳ございません。それと、どうか、サクラにはご内密に……」

 鼻が大きい……「グレイ」じゃなくて、「シラノ」だな。ローザの母国の名作戯曲に登場する、醜男の武人だ。

 そして、やはり整形だったか。それも、娘には隠して渋いオヤジになって好かれようとしているのか。どこまで人のご機嫌取りに終始するのだ。本当に幇間(ほうかん)そのものではないか。

 グレイは、ポケットから手術用の接着剤を取り出し、鼻を元通りにつけ直した。

「わかりました。では、一緒に昼でも食べましょう」

 私が元気づけると、グレイは弱々しく笑って、

「お供いたします」

 と、ついてきた。我々は、昼時の混んでいる病院食堂はやめて、少しは混まない大学にある食堂に向かった。


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