5月(2):循環器内科医グレイー卑下の権化ー

第25話 クロイの迷い

 シロイのことを、私が愛している……?

 モモ先輩は、そう言った。いや、前々から先輩はそう言っていた。

 私は認めなかった。彼女があまりにも、自分とはかけ離れた存在だったからだ。

 私は、ほとんど女性を好きになったことがなかった。誰かに恋したとしても、自分と似た女性を好きになるものと思い込んでいた。

 だが、シロイはあまりに私の理想と違い、間抜けで出来が悪くて、問題児だった。おまけに、教え子と教官だ。正式なアルツトライン制度の中には組み込まれていないが、それでも心情的にはいつまでも師弟である。

 シロイへの感情が変わりつつあるのは認めよう。だが、それはシロイの優しさ、人間性への敬意だと思ってきた。

 それを、急に「恋」と思えだと……? できるわけがない。

 だが、恋とは狂わしく心臓が跳躍するように、鼓動が高鳴り、相手の外貌や性格を高く評価するものだという。これは、「原因不明の病」と一致する。

 では、私はシロイに恋しているのか? いや、しかしそんなことは……。

 だが、ブラウ長官の身体ドナーは、ゲルプというシロイの元恋人だという。

 ということは、シロイの恋人は亡くなっており、モモ先輩はいわば仇だ。その仇と最も親しい私は、シロイにどう接したらいい?

 今も、シロイはゲルプさんのことを愛しているのだろうか。

 いずれにせよ、シロイのことはあきらめざるを得ないのだ。そうだ、それが彼女のためなのだ。

 だが、断念できるだろうか……。

 いや、シロイがただの教え子ならば、できるはずだ。一線を引き続けるのだ……。 


 そんなことを、一夜かけて悶々と考え、朝を迎えた。

 私はため息をついてベッドから起き出し、パジャマからラフなTシャツに着替えてから、朝のコーヒーを淹れた。こだわりのハンドドリップである。

 お気に入りのカップから、いい香りと湯気が立ち上る。その向こうに、シロイの猫のような笑顔がぼんやりと浮かんだ。私は、思わず手を伸ばして彼女の幻影に触れようとして、はっとした。

 やはり、これは恋なのか。だが、しかし……。

 私はまた考え込みながら、コーヒーを口に含んだ。ドリップがうまくいかず、モカの酸味をうまく引き出せていない。失敗だ。

 私は、コーヒーに添えた小さなチョコレートを口に入れて、血糖値を上げてから、朝食作りに取り掛かった。

 いつもの、トーストとオムレツである。

 結果、思考の迷路から抜け出せない私は、料理にも失敗した。ぼんやりしてトーストを焦がし、オムレツは半熟に焼きあがらず、固くなった。

 何もかも失敗したまずい朝食にうんざりしながら、私はシロイの朝食を食べてみたいと思っていた。

 菓子作りのうまいシロイの朝食は、絶品だろう。

 私は、トーストの焦げた皮をかじってしまい、苦さに顔をしかめながら、タブレット端末で今日の予定を確認した。使っているスケジュール管理アプリに、ぽつりぽつりと予定が並ぶ。

 昔は、ほぼ分刻みで予定が入っていたんだがな。

 そんなことを考えつつ、私は、今日の予定の中で一番大事なものに注目した。

 これを打ち込んだ昨日のうちから、マーカー機能でしるしをつけていたものだ。

 それは、「聖ルカ病院」循環器内科の医師グレイとのミーティングである。

 心臓病の診察を最初に行うのが循環器内科で、心臓血管外科は手術担当、ということで、循環器内科にも何人か知り合いはいたが、グレイと話すのは初めてだ。

 どんな医師なのだろう。……まあ、奇人変人である覚悟はできている。私は、その意に反して変人を引きつけてしまう運命のようだからだ。

 それにしても、もう女性の変人に好かれるのだけは勘弁だ。せめて男性の変人であってほしい。

 モモ先輩は、まあ例外ということにしておこう。

 私は、自分の悲観的な思考を努めて前向きにしようとした。認知のゆがみは精神衛生上よくないからだ。

 さあ、出勤だ。

 自転車通勤のための速乾性Tシャツに着替え、昨日アイロンをかけたスタンドカラーは、きちんとたたんでリュックに入れた。しわがつかない、最新式の衣料用圧縮袋に詰めたので、安心だ。

 出かけようと、火の始末の確認してから、私は靴を履いた。


 その時、言いようのない寂しさに襲われた。

 私は、医療のためにシロイを犠牲にするのか? いつまでも一人で暮らし、誰の見送りも受けないまま、出勤し続けるのか? もし、シロイが一緒に出勤するか、見送ってくれたなら……。

 いや、こんなことを考えるなど、私らしくない。シロイのことは、考えるな。

 私はエントランスのドアを開けた。しとしとと、五月雨が降っていた。昨日からの天気予報は当たった。私はリュックに詰めたレインコートを取り出してはおった。そして、マンションの駐輪場へ向かう合間に、空を眺めた。

 しとしとと、心臓のように雨を送り出すポンプと化した雲は、喪の色、濃い「鈍色(にびいろ)」で、燐光のような輝きを放っていた。


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