第39話 情報の代償
リラは喜々としてやってきた。二月はエアバイクでやってきたが、今日はおとなしく徒歩である。連日の研究疲れのせいか、化粧をしていても疲れが見える。
「教官、お久しぶりですわ。まさか、直々にお誘いを受けるなんて……」
「別に誘ったわけではない。ただ、聞きたいことがあるだけだ」
「教官のためなら、なんなりと」
「本当だな」
「ええ、このリラの 橈(とう) 骨(こつ)にかけて」
また腕の骨か……。相変わらずだな。私は何千回目かのため息をつくと、リラを近くに呼び寄せた。話がもれ聞こえないためだ。しかしリラは、何を勘違いしたのかぽっと赤くなった。
「教官、そんな、昼間からお近くで……」
「馬鹿、誤解だ。秘密の内容が聞きたい」
「はい」
「『身体記憶抹消研究』を知っているな」
リラははっとした。
「なぜ、それを」
「聞かれたことに答えろ。誰にも言わないから、安心していい」
「……はい。今、うちの研究室と生理学研究室で共同研究の真っ最中です」
「それについてなんでもいいから教えてくれないか」
「でも」
「頼む。お前しかいないんだ」
私は、猫なで声で言った。半分本当である。そして、いやいやながら自分の手を差し出した。
「手首の出っ張りに、触っていいぞ」
「まあ! 」
リラの目が残暑の太陽のようにぎらぎらと輝いた。
「では、お話いたしますわ」
落とすのは簡単だな。こちらにとってはありがたいが、国家にとってはどうなのだ。 リラから聞いたところによると、ブラウ長官には、ゲルプさん――Gという仮名だった――の「身体」に残ったかすかな「記憶」、目、耳、手などに残る絆とも言うべき記憶があるらしく、「恋人」「娘」の写真を見るだけで、涙の反応を見せるという。ゆくゆくはこの「記憶」を消し去り、次のドナーである「娘」に会っても涙を流さなくてもよいように、この「記憶」の抹消研究が、医大の解剖学研究室と生理学研究室で進められているのだ。
だがリラによると、今のところ症例が一件しかないため、研究がなかなか進まないという。それはそうだろう。医学の研究は、症例をたくさん調べてナンボである。
ただ、リラはゲルプさんのこと、ブラウ長官のこと、シロイのことなど、具体的な名前は知らされていなかった。国家機密であるからだろう。
「『身体記憶』が本当に存在するかも、よくわからないのですわ。この被験者は、厚生省の大物らしいのですが、お忙しくてあまり観察研究にお越しいただけなくて。この方おひとりの症状では、なんとも……」
リラはため息をつく。私は、これ以上リラから情報を引き出せないとみて、あきらめた。
「では、約束だ」
私は、手首の出っ張りをリラに触らせた。気持ち悪いが仕方がない。シロイの手を取ったことがあるのが救いだ。彼女に触れたことがない手でリラに触りたくないからだ。
「まあ、夢のよう……」
リラは酒に酔ったような目つきで、ぺたぺたと出っ張りに触れた。その触り方が、だんだんとねっとり、絡みつくようになっていく。
「おい、もういいだろう」
「教官! 愛していますわ! 」
そう言うと、リラは出っ張りに口を寄せ、なめようとした!
食われる!
私は慌てて手をひっこめた。リラはバランスを崩して倒れた。
「うう……教官の愛が痛いですわ……」
「自業自得だ」
リラは、倒れた時に乱れた髪を直して起き上がった。
「それでは、夢のような時間をありがとうございました。次はぜひ、上腕二頭筋を」
誰が触らせるか。リラは、投げキスをして去って行った。
私はしばらく考え込んだ。
これは、ブラウ長官の人間性に賭けるしかない。つまり、シロイをM機関の長官の元に呼び、その姿を見せて、ゲルプさんの涙を誘い、自分がいかに非人道的な罪を犯したか、自覚してもらうのだ。そして、「魂のメス」を、「パス角膜」で処分してもらうしかない。
これは、賭けだ。失敗すれば、別の傀儡の医師が選ばれ、私は現役中冷遇されるであろう。だが、成功してもゴルト理事長の恨みを買い、心臓血管外科医局復帰は叶わないであろう。
しかし、愛するシロイのため、自分の医師としての良心のためだ。
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