第16話 貧乏部局の人身御供
「クロイ先生! 許しませんぞ! 」
ルーティンワークが順調に回り始めたその時、部局長がいきなりノックもせずにドアをぶち開けた。
おっさんは、息を切らして私をらんらんと光る目で、怒りをこめて見ている。何事か、私がしでかしたのか。いいや、ありえない。だとすると、シロイか?
シロイの尻ぬぐいをさせられるとしても、私は教官だ、シロイをかばってみせる。どんな恫喝にもびくともしない……と、殊勝なことを思ってみたのだが、部局長の格好に私はおかしさをこらえきれず、くすりという笑いをふうっとため息に紛れさせて、うまく隠した。
部局長は、今日に限って、薄い頭頂部を、整髪料を使ってきれいになでつけ(薄さが強調されているのに気づかないのか)、最近発売された、マイナスイオンを放出する「オヤジ臭対策」香水の、スパイシーかつ清涼な香りをぷんぷんさせ、三つ揃いを着て、ご丁寧に手には白い手袋をはめている。花婿か、あんたは。
「部局長……何事ですか。そして、その格好は」
「お分かりでしょうが! ミスコンですよ、ミスコン。ミスコン参加者の、部局内投票が行われたのです」
私には、おっさんの意図を推し量りかねた。ミスコンだからと言って、なぜ部局長が一張羅でめかしこまなければならないのだ。
「おっしゃる意味がわかりませんが。ミスコンは、女子たちのものでしょう」
「クロイ先生……『あの』理事長が、そんな普通のコンテストで、高額賞金と、優勝部局に臨時手当の支給とボーナスアップ、高額予算を組むことを約束してくださるとお思いか? 」
私は、「ゴルト」というアスコットタイの少女理事長を思い出した。やはり、変人なのか。どんな変人だ? いかなる奇妙な嗜好の持ち主なのか?
「確かに。で、ミスコンとはつまり」
「『ミスコンテスト』ではなく、『ミスターコンテスト』です。つまり、理事長の婿探しだという話です」
そうきたか! それは、確かに略せばそうなる。そして、あの心臓血管外科医局の女子たちの会話が、どことなく弾んでいたのは、このためだったのか……。
私はげんなりした。
「で、投票とは」
「参加者を決めるため、部局内の女子で投票をしました。もちろん、私とて一人の独身男児、心は青年。立候補して、最高におしゃれをして臨みましたが、あえなく、最有力候補のあなた……クロイ先生に負けたのです」
おい! 聞いていないぞ! 勝手に人を擁立するな! それに、婿探しだと? 私の意向を無視するな!
婿……結婚……。私は、確かに独身だが、そんなことは考えたこともなかった。何しろ毎日仕事に追われ、それが生きがいでもある。自宅へは、寝に帰るようなものだ。そんな私が、家庭など……。
しかし、バレンタインで焼いてくれたシロイのブラウニーはうまかった。あの菓子を、折に触れ自宅でも食べられるなら……。私は、エプロンをつけてうきうきとオーブンの前に立つシロイを思った。
シロイは、結婚するのだろうか。もし、シロイが結婚すると報告に来たら、私は何と言えばいい……?
そこまで想像をたくましくしていると、突然シロイを先頭に女子たちが包みを一つ持って入ってきた。
部局長は、手の甲で目をぬぐった。悔し泣きか。「最高のおしゃれをして」立候補して、その場にいない私に負けたあんたも哀れだが、勝手に部局の予算のために人身御供にされる私の身にもなってくれ。
シロイがにっと笑って言った。
「きょーかん、おめでとうございます~!!推薦した甲斐がありました~ 」
お前か! 余計なことを……。それに、私がもし、見知らぬ少女の婿になったとしても、お前は平気なのか?
おっさん、泣きたいのはこっちだ……と思ったのは内緒の話だ。
「いえいえ、シロイ先生が推薦なさらなくても、部局長よりはるかに、クロイ先生の方が素敵ですよ。月とすっぽん、いいえ、太陽と素粒子です」
それはどうも……と、シロイ以外の女子にほめられても、別に嬉しくもなんともない……いや、何でもない。太陽と素粒子、という比喩を持ち出すところが、理系女子らしい発想だ。
部局長は、青ざめた顔で、ふらふらと千鳥足のようなステップで執務室を出ていった。よほどショックだったらしい。私は今日二度目の、ご愁傷さま、を心の中で唱えた。
「あのな……。人を勝手に『ミスコン』に推薦して他人の婿にしようとするな」
「だって、予算がなかったんですもの」
ねえ―っと、女子たちはいっせいに賛意の声を上げた。シロイ……お前もなのか?
「わ、わたしは、きょーかんが単に……」
シロイは、ぼさぼさの髪をいじくり、下を向いた。彼女の前髪が目にかかって表情が読み取れない。「単に」、何だ?
「そこで、クロイ先生、水着を部局で用意しましたよ。この包みです」
そうだった! 水着で審査と聞いたのだった。この花冷えの季節、春とはいっても寒い中でなぜ水着を着なければならんのだ。医者がミスコンで風邪を引いたら、笑われる。
「水着はちゃんと、ふんどしとかブーメランタイプじゃなくて、かっこいいサーフタイプにしましたよ~」
シロイは、顔を上げて、上気した痕をかすかにとどめながら、明るく言った。
当たり前だ!ブーメランタイプの水着など、恥ずかしくて着られるか! 加えてふんどしなどと、お前は何を考えている!
私は、さっきのシロイの「単に」の先が気になって考え込んでいた。そのうちに、女子たちは、
「楽しみね」
「クロイ先生の水着! 」
などと楽しそうに歓談しながら去っていった。シロイは、その後からぼんやりとついていった。
私は、水着の入った包みを押し付けられて、取り残された……。
仕方ない。私は仕事の鬼、部局のためだ。悲壮な覚悟を決めて、私は水着の包みをデスクの引き出しにしまった。
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