第22話 厚生省М機関長官ブラウ

 病院に到着し、部局の更衣室で着替えた後は、タイムカードの打刻もそこそこに、私は心臓血管外科医局へ向かった。いつもならモモ先輩の明るい声が響いているはずなのに、今日はしんとしている。先輩はドアに背を向けて、ぼんやりと考え事をしているようだ。そんな先輩の暗いたたずまいに、周りの医師たちも気を遣っているようで、皆黙って仕事をしている。

 やはり、これはただ事ではない。

 私は「原因不明の病」とは違った鼓動を抑えながら、モモ先輩のデスクに向かい、そっと声をかけた。

「先輩。クロイです」

「あら、早かったわね」

 先輩は微笑んだが、それは能面が笑顔を強要されるのと同じくらいに不自然なものだった。

 我々は医局内で内密の話をする際に使われる、通称「相談室」という小さな部屋へ向かった。

「どうなさったんですか」

「これを見て」

 先輩は、デスクの引き出しから取り出してきた一枚の紙を見せた。私はそれを手に取って、さっと目を走らせた。重要書類を送付する際に、メールで情報が洩れるのを防ぐために、特別に開発された「院内便」による書類であった。


「心臓血管外科チーフアルツト・モモ殿


『さる重要人物』のセカンドオピニオン並びに、心臓外科手術担当医に、『病院再建局』所属アルツト・クロイ殿を推薦していただくよう、ご尽力ください。成功の暁には、クロイ殿の心臓血管外科医局復職を許可いたします。

 なお、この件については他言無用のこと。その理由は、あなたが最もご存じです。


 聖ルカ医科大学付属病院理事長 ゴルト」


 私には、この書類が何を意味するのか、全く分からなかった。

「さる重要人物」とは誰か?なぜ私なのか? 「他言無用の理由」とは?

 書類を手にしたまま考え込んだ私に、モモ先輩が悲し気に言った。

「アタシ、あんたをこっちに復職させてあげたくて、理事長に働きかけていたのよ。でも、それが仇になるなんて……」

「私には、この書類の意味が分かりません。まず、『さる重要人物』とは? 」

「厚生省の大物よ。名前は、『ブラウ』。『嘆きのブラウ』という異名もあるわ」

「ブラウ……? 」

 そんな名前の大物官僚は、聞いたこともなかった。そんな私の心中を、モモ先輩が察してくれた。

「この人は、厚生省医療特務研究機関、通称『M機関』の長官よ。機関自体が秘密の存在で、めったに人前に出ないから、あんたも知らないのよ。そのブラウ長官とは、アタシも因縁があるの。思い出したくもない、あの事件……」

 先輩は、まつ毛を伏せた。

「詳しいことは、ゴルト理事長から聞きなさい。あんた、呼び出されているわよ。ただ、アタシは不安なの。あんたを罪に落とさないか、医師としての道を踏み外させないか。アタシはね……罪に手を染めたのよ」

 先輩は泣き出しそうだったが、気丈に涙をこらえ、笑顔を見せた。そして、その時私の医療用インカムから、ゴルト理事長の声が聞こえた。

「クロイ先生、モモ先生からお聞き及びと思いますが、理事長室へお越しください」

 通話は一方的に切れた。私は、戸惑って先輩を見たが、先輩は手まねで行けと伝えた。そして、「相談室」の少々固めのソファに腰を下ろしたまま、深いため息をついて、こう言った。

「『ヴィオレット』に注意しなさい。精神科医、ブラウ長官の腰巾着よ」

「分かりました」

 なぜここで精神科医が出てくるのだ、といぶかしく思いながら、私は理事長室へ向かった。



 

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