第10話 白薔薇の星空の下で
廊下で、私はシロイと出会ったが、シロイはどことなく悲しそうな顔をして歩いている。前から私が来るのに気付いていないようだ。
シロイ……どうして、そんな顔をしている?
私は、鼓動を抑えつつ、尋ねた。
「シロイ、どうした」
「あっ……。なんでもありません、きょーかん」
シロイは、ぱっと笑顔を作った。気にはなるが、問い詰めるわけにもいかない。シロイだって、落ち込むことくらいあるだろう。多分。
「何かあったなら、相談に乗ってもいいが」
「本当に、なんでもないんですよ~。それより」
シロイは、手に持っていた何かを後ろに隠した。
「今日は、『バレンタイン』ですね、きょーかん」
「あ、……ああ」
私は、心拍数マックスの心臓を押さえていることを、書類で隠しつつ、それとなく尋ねた。別に、どうだっていいのだが。本当だ。
「シロイは……誰かに、渡したりしないのか。その、チョコレートを」
「あげたい人はいますよ~」
ほ、本命がいるのか……? 私は、口まで渇き始めた。舌が口蓋にくっついて、うまく発声できないが、なんとか尋ねた。繰り返す。どうだっていいのだが。
シロイは、ふっと一抹の哀しみを帯びた笑顔で言った。
「いえ……でも、いないんですよね」
は? 私の鼓動は一気に鎮まり、舌はうるおいを取り戻し、頭の中は疑問符で一杯になった。
どういうことだ……?
「……っと、それより! きょーかんはモモ先生からもらうんですよね~。いいな~、いいな~ 」
シロイが、元の明るさを取り戻して、私の顔を覗き込んだ。
馬鹿! 今の私には刺激が強い! ……と、何を考えているんだ。
「……だから、誤解だ。モモ先輩は、ただの先輩だ。私はノーマルだ」
その時、脳内でモモ先輩がキーッとハンカチを噛みながら襲い掛かってくる幻覚が発生した。テレパシーか? まあ、気のせいだ。
「きょーかん、まあまあ、言い訳しなくても~。ところで、これ」
シロイは、後ろに回していた手を前へ差し出した。そこには、透明のかわいいラミネート袋に包まれている、白くて小さな箱が載っていた。
「これ、作ったんです~。ブラウニーですよ~。お忙しいと思って、溶けないように焼き菓子にしました~ 」
シロイの手作りチョコ……! 私は、鼻の奥に錆臭さと生ぬるさを感じた。
危ない……病気が、全身に広がりつつある……。
「か、……感謝する」
シロイは、他にもチョコを持っているようで、背負ったリュックから次の箱を取り出した。
「次っ! 部局長のところに行ってきま~す」
おい……あのおっさんと同列か……。義理中の義理だな。それでも、「お返し」はしなければならない。私は、病院内にある、趣味がよくて一般人でも品を買いに来る花屋に行った。
「いらっしゃいませ」
「……ブーケを。白薔薇の、小さなブーケを」
「お引き受けいたしました」
小一時間ほど経った後、上品な白い薔薇のブーケを渡された。これはいい。リボンはブルーだ。淡いブルーの瞳を持つシロイにぴったりだ。
「シロイ。私の部屋へ」
ガラスが掃除され、仮のフェイクガラスがはめられた部屋で、私はインカムを通してシロイに連絡を通した。すぐに彼女はやってきた。
「きょーかん、シロイです~ 」
「こちらへ」
彼女は、デスクの前に立った。私は、ほてりそうになる顔を、なんとか冷やそうと、さっきから冷房をガンガンに入れている。シロイは体を縮めてぶるっと震えた。
「きょーかん、寒くないんですか~? 」
「寒い。用件が終わったら、さっさと帰る。……シロイ、『お返し』だ」
私は、白薔薇のブーケをシロイに渡した。シロイの瞳が揺れた。そして、笑みがこぼれた。
ああ……これはいい。可憐だ……と、私は何を考えている。シロイだ、シロイなんだぞ。
「ありがとうございます~」
そこまではうまくいった。だが、シロイの湖水のような瞳に、波のように涙が浮かび、こぼれた。
「ど、どうしたんだ、シロイ……」
「何でもありません。嬉しくて。そして、ちょっといろんなことを思い出して」
いつもの間延びした声でなく、少し元気のない、しかしそれでも透明に光を放つ声で、シロイはつぶやいた。
「……それはいいとして~。わたし、今日が誕生日なんです~。お祝いしてもらっちゃった、えへっ」
シロイは、またもやいつものにこにこ笑う姿に戻った。本当に、シロイはどうしたんだ。
それに、今日が誕生日なんて、知らなかったぞ。知っていたら、様々な経歴や成績と一緒に、私が記憶し、また書類にして保管していたはず……。
そういえば、シロイに関する書類の、誕生日の欄は空欄だったような気がする。いや、そもそも書類にシロイのプライベートな事柄は、ほとんど載っていなかった……。それで、大学側に問い合わせたら、厚生省の判が押された、「異様に完璧な」書類が送られてきたのだった。当時はなんとも思わなかったが、今にして思えば、なぜ厚生省からシロイの書類が回されたのだ。
シロイ……私は、お前のことを、あまりに知らない。教えてくれ、もっと……。
「そうか、誕生日か。おめでとう」
「あれあれ~、きょーかんがやさしいっ!ありがとうございます~! 」
シロイは、照れたようにぼさぼさの髪をいじくりまわした。
「今日は、花と色の神様の誕生日なんですよ~。昔の、『ニホン』時代の神様です~。ショウビっていう神様なんですよ~。グッドタイミング、きょーかん、わかってらっしゃる~ 」
そうか、ショウビ神の誕生日なのか。ショウビ(薔薇)……偶然にしては、なかなか気が利いたことをした。
「ではでは、わたしは計画書の手直しがありますから、これで~。残業です~ 」
シロイは、手をひらひらと振って去っていった。私は、体が落ち着いたのを確認すると、すぐに冷房を切った。そして、暖かいカシミアのコートを着て、部屋のチェックをした。
その時腹が鳴った。私は、自宅でゆっくり味わおうとしていたシロイのブラウニーを取り出した。
ラッピングを取り去り、箱を開けると、きれいなこげ茶色で、焼いた割れ目も美しいブラウニーが出てきた。私は、その一切れを口に入れた。
……うまい。
いつのまにか、三切れ全てを食べ終えていた。私は、満たされていた。
シロイは、料理どころか、お菓子作りがうまいんだな。意外な特技だ。
私は、ほどよい血糖値の上昇で、セロトニンが放出され、脳もリラックスしながら外に出た。雪が、ちらつき始めていた。
白薔薇の雪、か。
その雪の降る彼方に、私はシロイと白薔薇を見ながら帰途についた。
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