第12話 昏倒
次の日私は、シロイを連れて心臓血管外科の外来へ行った。「おもてなし医療」提唱者のシロイに相談してみると、それはやんわり断ったほうがいいという。しかも、ダメージが少ないように、ミドリさんが好きな「桜の間」で。
外来は、ごったがえしているかと思えば、そうでもなかった。昼休み前に行ったからだろうか。
ミドリさんは、果たしてソファに腰掛けていた。今日はファー付きピンクのコートに、千鳥格子のミニスカート、深紫色のタイツに黒いブーティーだ。しかし、読んでいる本が堅苦しい「変体かな読本」なのだから、おかしみを誘う。
カーテンで仕切られた処置室から、ローザが手招きした。我々は、中に入った。ローザは、注射のアンプルを処理していた。彼は、心臓血管外科、いや「聖ルカ病院」一注射がうまい看護師として知られている。本人が謙遜して語るところによると、ローザは福祉施設で働いていた経験が長く、血管が細い老人が痛くないように、注射の仕方がうまくなるように練習したのだという。
「クロイ先生、シロイ先生。お部屋は、ご用意していただけましたか」
ミドリさんに断ったほうがいいという話は、ローザに通してあった。あとは、我々がしぶい顔をする部局長と、「桜の間」を管理する部局を説得して、二人を特別に中に入らせてもらうことになった。我々二人はうなずき、鍵をローザに手渡した。彼は、ごくりとのどを鳴らすと、その器用な手に似つかわしい、関節のやわらかい手で、鍵を受け取った。そして、待合室のミドリさんに、何事か声をかけ、彼女はぱっと笑顔を浮かべた。そして、二人で出ていった。
我々は、ローザからの頼みもあって、なりゆきを見守るために、「桜の間」の外で、身を隠して待った。別に隠れなくてもいいと思うのだが、シロイがどうしてもと言い張った。真剣な目だった。そんな真剣さがあるなら、勤務態度に表せと思ったが、仕方なく我々は外の衝立の陰で待った。
しばらくすると、ローザが出てきた。彼は、悲しそうにかぶりを振った。
「私には、とても言えません。離婚した母を思い出すんです。母は、恋に破れ続けて、男を信じられなくなって、最後には息子の私まで嫌い、死にました。もしかしたら、ミドリさんがそうなるかもしれないと思うと、怖くなります……」
「ローザさん」
シロイが、毅然として言った。
「一時の優しさで、迷ってはいけないと思います。その気がないなら、断るのが、結局ミドリさんのためです。ミドリさんなら、わかってくれます。この『桜の間』が好きな、桜の花の花言葉を理解しているミドリさんなら」
「桜の花言葉とは……」
私が聞くと、シロイは、ふっと目を伏せた。
「『精神美』です。ミドリさんは、心が美しい方です。わたしにはわかります」
ローザは、うなずくと、また「桜の間」に戻っていった。しかし、しばらく経つと、彼の叫び声が聞こえてきた。
「ミドリさん、どうしたのですか、ミドリさん! 」
我々は急いで部屋に入った。ミドリさんは、意識を失って倒れていた。
「どうしたんだ! 」
「いきなり、頭が激しく痛むとおっしゃって。それから、昏倒して……」
「ミドリさんは、持病があったか」
「いえ、わかりません。外来に来られても、詐病だとみんな相手にしなかったので。ただ、血圧は高かったようです」
「クモ膜下出血かも! 」
天下のクロイたる私の診断の直前に、シロイが叫んだ。シロイ……どうした。医者のようだぞ。いや、医者なのだが。
「よし、脳神経外科に連絡を通す! 」
私は、エマージェンシーインカムを通して緊急搬送連絡を入れ、脳神経外科からの応援を待った。シロイは、涙を浮かべてミドリさんの手を取った。そして、はっとしたかと思うと、どこかへふらりと消えた。私は、応急処置で忙しく、シロイにかまっている余裕はなかった。
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