竜魔神姫ヴァルアリスの敗北
CAT(仁木克人)
第一章 ヴァルアリス無双編
プロローグ 魔界の頂点
見渡す限り草の一本もない、荒涼たる大地。強酸性の赤い風が吹き荒れ、砂を削り、見る間に地形が変わっていく。
陽の光はなく、空には血のように赤い星が煌々と輝いているのみである。
今、その赤い光の下を疾駆する二つの影があった。
影とは形容ではなく、影そのものである。漆黒の影は一つが先行し、もう一つが控えながらそれを追う形で、音もなく地面の上を滑って行く。
荒野を駆け抜け渓谷に差し掛かると、二つの影は立ち上がって人型を成した。
一人は白髪と青い肌、額に第三の眼を持つ巨漢。腕組みした姿勢で立ち、静かに深い谷を睥睨していた。筋骨は隆々だが、鈍重さは微塵も感じさせず、全身の隅々まで充実した気迫に満ちていた。
腰から下を覆う黒い布は滑らかな光沢を持ち、黄金の腕輪や首飾りなどの装飾品は無数の宝石と複雑極まりない文様で彩られている。それらはいずれも闇の祝福を受けており、吹き付ける酸の風を無毒化している。
青肌の巨漢より少し後ろに立ち、同じく谷を眺めているもう一人は、赤紫の肌を持ち、髪は若葉めいた緑。黒い刺青が全身をまだらに走っていた。大きく膨らんだ胸、細くくびれた腰などに艶かしい女性の特徴を持っている。
銀糸の刺繍が施されたドレスはやはり呪毒を弾く加護を受けており、風をはらんで優雅に翻る。
それよりも目を惹くのは、額から前方に向かって生えている二本の角、獣じみた蹄を持つ脚。加えて、背には蝙蝠のような翼が一対あった。
ここは人の住む世界ではない。
人類の中には稀に、夢の中、臨死の最中、あるいはふとした意識の狭間でこの世界の存在を感じ取る者がいる。が、その大部分は精神が焼き切れ発狂してしまう。
そのような破滅を逃れた僅かな天才たちだけが、書物や絵画に記して、この世界の存在をおぼろげに我々に知らしめるのだ。
人の認識で捉えるならば、この地は魔界。そこに住む者は魔族と呼ぶのが相応しい。
「ウェリゴース様。本当にこの先に居られるのですか」
女性型の魔族が問うた。彼女の名はグレミアと言う。魔族における階級は最下層から三番目、
問われた側、ウェリゴースと呼ばれた魔族の男は振り向きもせずに返した。
「我が言葉を疑うか、グレミア」
「いえ。滅相もございません」
ウェリゴースの階級はグレミアの四つ上、
それでも疑問を口にしたのは、何故か。
グレミアは恐れている。眼前のウェリゴースは勿論のこと、この渓谷に住む生物を恐れている。
かつて、数多の魔族の戦士たちが名を上げるべくこの邪竜に挑んだが、悉く敗れ去った。それは愚行でしかなかった。
防御魔法によって防ごうと試みたとして、グレミアが展開できる
そもそも、そのような長大な魔法の詠唱を邪竜が大人しく待っていてくれるはずもない。瞬く間に八つ裂きにされるだろう。
しかも
ただ捕食するのではない。捕えた生物の因果そのものを取り込み、自分の一部へと変換するのである。
そうなってしまえばもはや、死の淵からでも対象を蘇らせる事のできる
「間違いなくこの先に居られるのだ。魔界の、ひいては我ら魔族の頂に立つ御方。ヴァルアリス様が」
ウェリゴースの額にある第三の眼は
今まさにその姿を捉えているのであろう。
グレミアの恐れを知ってか、知らずか、ウェリゴースはそのまま悠々と歩を進めていく。
グレミアは邪竜の存在が気が気でなく、しかし、先へ進むごとに訝しむ事となった。
静かすぎるのである。
かの邪竜は、今日に限り穏やかな眠りについているのであろうか。
やがて、グレミアの前には予想もしない光景が現れた。
巨大な球状の光である。
大きく開けたその場所に、目も絡むほどに輝く球体が鎮座し、周囲を照らし出していた。
その輝きが見慣れた
一体、何層の結界を展開すればこれほどの巨大さと光量になるのか。何千、あるいは、何万。文字通り桁が違う。
「ヴァルアリス様」
ウェリゴースの呼びかけに応じ、絢爛たる結界は一瞬にして眩い光の粒と散る。その中を、静かに歩み来る少女の姿があった。
グレミアはその姿を見た。彼女こそがヴァルアリスに違いないとは一目でわかった。
艶やかな黒髪は風に靡き、深い闇色の瞳をちかちかと星が瞬くような輝きが満たしている。白くなめらかな肌にはシミひとつ無く、長い睫毛、通った鼻筋、濡れた唇と、顔身体のパーツ全てが完璧な比率で、計算され構成されている芸術品のようだった。
少し伏し目がちに憂いを帯びたその表情だけが僅かに調和を乱し、しかしかえって造形の美を際立たせている。
グレミアはいつしか膝をつき、地に擦り付けんばかりの勢いで頭を下げている。
そうせずにはいられなかった。歩み来るヴァルアリスの背後には、横たわる
だらしなく舌を出して開かれた口、光の失われた眼、そして夥しい量の出血。絶命しているのは疑いようもない。
結界はヴァルアリスの身を守るためではなく、邪竜を閉じ込め、逃がさず葬るために展開されていたのだと、それを理解した。
「見ない顔だ」
グレミアを一瞥し、ヴァルアリスは極めて冷ややかに言い放った。表情といい声音といい、氷の温度である。応じられるのはウェリゴースのみであった。
「我が配下、グレミアにございます。数日のうちに
「
グレミアはもはや生きた心地がしない。震えながら二人の言葉が交わされるのを聞き、いかなる展開となるのかを待つのみである。
「本題は別に。
「漸く、か」
ヴァルアリスの放つ剣呑な空気が微かに和らぎ、グレミアはようやく呼吸の仕方を思い出した。
噂には聞いている。既にこの魔界の長は、実質的にはヴァルアリスなのである。
現王は形式として玉座についてはいるが、既に求心力を失って久しい。ヴァルアリスが王族に代々課せられた試練、すなわち
「本当に、人界を滅ぼされるのですね」
「無論」
ヴァルアリスは指先を高く掲げ、長い爪を星の光に透かした。血輝石と魔界薔薇の花びらで作り上げた爪紅が、きらきらと流れるように瞬く。
「魔力の一欠片も持たぬ下等な生き物が、王族の似姿を持つというその一点のみで、長きに渡り生きながらえてきたのだ。不快極まりない」
魔力こそ持たないものの、人間の魂の質は極めて良好だ。仮に
しかし、魔族は古くから人の世界を知り、時に干渉さえしてきたものの、決して滅ぼそうとはしなかった。
その理由はひとえに、魔族の王の血筋と人間の姿があまりに似通っていたからである。数えきれないほど存在する異世界の中で、文字、数、暦の法則などが魔界と似る世界はそこまで珍しくはない。
しかし、人間と魔界の王族の姿はあまりにも似過ぎていた。
魔族はこの偶然を興味深く思い、観察したがり、どこかで恐れた。それ故に誰も手をつけず、人の世界は破滅を逃れ続けてきたのだ。
その特例は今をもって消滅する。
他ならぬヴァルアリスがそれを望んだからである。
「実行はいつになさいますか」
「今すぐ。これからだ」
予期せぬ答えにウェリゴースはたじろぐ。
「そこまで急く理由も有りますまい」
「否だ。待つ理由がない」
ヴァルアリスの指が天を指した。
「瞼の上に塵が舞っているのを、黙って眺めている理由がない。払えば良いのだ」
指先から光の線が次々と走り、空中に奇怪な文様が描かれた。
これは何もヴァルアリスの専売特許というわけではなく、魔族はたびたびこの技術で異なる世界への侵攻を行なっている。
だが、恐るべき事実にグレミアは再度身震いした。
「
通常、魔法を使うためには長大な呪文の詠唱を必要とする。
それを破棄して魔法を使用する
ゆっくりと降る転移陣の光がヴァルアリスの身体を全て包み込むと、即座に彼方への転送は完了した。
光が消え去った後には一陣の風が吹く。
最大の敬意と抑え切れぬ畏怖を込め、グレミアはその階級と御名を口にする。
「
もはや人類に生存の道があるはずもなかった。人の世界の滅亡。ヴァルアリスは自ら振るう魔法によって、易々とそれを実現するであろう。彼女に慈悲はなく、人類には彼女に抗う力などない。
だが、忘れてはならない。
この物語の題名は、
そう、これは魔界の頂点にして至宝、戯れに竜をも屠る、絶対無敵、最強不敗の
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