第12話 新宿区大久保の焼肉ランチ(前)
「は?」
暑い陽射しの下、西新宿は"ステーキハウス蘭堂"の店先でヴァルアリスはあっけに取られていた。店のガラス扉には"本日気が乗らないので臨時休業"の貼り紙がされている。
ステーキハウス蘭堂の定休日は毎週水曜日なのだが、この店の主人は稀に気分で店を閉めるのである。
常連の間では常識なのだが、魔界生まれ魔界育ちのヴァルアリスがそのようなことを知るはずもなかった。
「ほ……滅ぼすぞ、人類……!」
ヴァルアリスはガラス扉にへばり付き、無人の店内をしばし恨めしげに見つめていた。が、やがて肩を落とし、トボトボとあてもなく歩き出した。
理解できない。
客商売をするものが、そのような理由で気まぐれに休業し、客を裏切る事があって良いのか。
評判高い米沢牛厚切りステーキ350グラム(オニオンソース)を求めてここまでやって来たのである。
極限まで膨れ上がったこの期待に、肉への欲望に、一体誰がどう落とし前をつけてくれるというのだろうか。
茫然自失状態のままひたすらに歩き続け、いつしかヴァルアリスは新大久保の駅前を通過していた。
この付近はコリアンタウン、アジアタウンなどと呼ばれ、異文化の香りが漂う独特の雰囲気を醸し出している。
しかし今のヴァルアリスには、声高に呼び込みを行うコスメショップの販売員も、アジア雑貨店の店先に並ぶ奇妙なオブジェも、何もかもが虚しい。
朦朧とした意識の中でふと顔を上げたその視線の先、ヴァルアリスは己の脳内を支配するイメージそのままの文字を見つけた。
「肉……」
正確には"炭火焼肉 炎風園"である。その文字は白地の看板にインパクトのある太い書体で書かれていた。
(焼肉……)
ぼんやりと記憶を辿る。焼肉とは何だったか。確か、人類の好む食事の中でも比較的上位に位置する……
「これだ!」
突然ヴァルアリスの目に生気が戻った。
初戦のメンチカツはともかく、その後のヴァルアリスは入念な下調べを行って店を選別しては敗北を繰り返している。
ならば、あえて何も知らぬまま通りすがりのこの店に飛び込むことで、今までとは違う結末へ辿り着けるのではないだろうか。
決して、もう肉ならなんでもいいという安易な考えではない。
即決即断をモットーとするヴァルアリスは、躊躇いもなく店のガラス戸を開いた。
店内に踏み込むと、ひっつめ髪に笑顔も眩しい丸眼鏡の店員が出迎えた。胸の名札には「チャウ」と書いてある。
「何名様ですかー」
「一名だ!」
「一名様でしたら、こちらどうぞー」
ランチタイムで混雑している店内に一席の空き、これはもはや天命である。
案内されるままに席に座り、意気揚々とメニューを開いて、そこでヴァルアリスは初めて戸惑った。
何がどの肉なのか全くわからない。
ミスジとは何だ。コブクロとはどの部位なのか。ザブトンというのは、人類が尻の下に敷くクッションの名称ではなかったか。
(そんなものを食べるのか……?)
腹が減っているというのにサイドメニューも含めて異常に選択肢が多い。サムギョプサル、ピビンパ、コムタンクッパ……焦りばかりが先に立って目が上滑りしていく。即断即決がヴァルアリスのモットーだというのに!
(いや……待て!)
魔界の頂点たる
「よくばりランチセット。これだ!」
それは数種類の肉とご飯、キムチ、そしてドリンクが揃ったお得なセット。お肉食べたい欲を十分に満たしつつバランス良く野菜も取れ、お手頃価格だ。
そしてヴァルアリスは知っている!この手のランチセットは、店側もかなりの数が出る想定で準備しているもの。あれこれと単品で頼むよりも、提供されるのが圧倒的に速いはずなのである!
仮説を裏付けるかのようにテーブルにはすぐに炭の入った七輪がセットされ、ごはん、キムチ、ウーロン茶、そして肉のプレートが並んだ。
今のヴァルアリスには漬けダレを纏った肉がつやつやと赤く輝いている宝石のようにさえ見える。
「この肉はそれぞれ、何だ?」
逸る気持ちと溢れる唾液を抑え、最低限の確認はしておく。
「お肉は右手前からタン塩、ロース、ハラミ、カルビですー」
聞いてはみたものの、肉の種類については何が何やらである。一人残されたヴァルアリスは七輪を眺め、肉を眺め、頷いた。
「……ふむ。なるほど?」
察するに焼肉とは、この目の前の火を眺めながら生肉を食べるという、一種の儀式めいた食事形態なのだろう。網の中で白熱する炭は見世物としてはなんとも慎ましいが、そこは人類の限界というものか。
ヴァルアリスは苦笑しながら肉の一枚を挟む器具で摘み上げ、口へと運ぶ。
「おッ客様ァ!」
ヘッドスライディングのような勢いで突っ込んできたチャウに、ヴァルアリスは眉をひそめた。飲食店の店員としてはあまりに騒々しい。
「肉、焼いてくださいねー! ちゃんと焼いてから食べて! お腹壊すよー!」
「焼いてから……?」
首を傾げ、目を瞬かせ、然る後にヴァルアリスは叫んだ。
「この店では客に肉を焼かせるのかッ!」
「焼肉ですからー!」
至極真っ当な返答を受け、ヴァルアリスは愕然とした。まさか客自身が調理を担当しなければならない店舗体系があるとは思いもよらなかったのである。
あまつさえ、それが人気とは。
だが、それと知ってみれば確かに全ての辻褄があう。
「ははあ。この挟む器具は、皿から肉を網に移す時にだけ使用するのだな」
「それはトングと言いますねー」
置いてある銀色の箸はおそらく金属製で耐熱仕様。口に運ぶ際はこちらで食べる方がはるかに食べやすいだろう。
「タレも使ってくださいねー。タン塩はレモン汁でどうぞー」
「そうか。そういう事か……成る程な。全て繋がったぞ」
しきりに感心するヴァルアリスの様子を見て、チャウはおずおずと申し出た。
「宜しければ、こちらでお肉焼いてからお出ししますがー……」
「見くびるな!」
烈火のごとき一括!不幸な店員・チャウは慌ててその場を離れることとなった。
ヴァルアリスはなにも肉を焼くという行為自体が初めてなわけではない。先だっての
それに比すれば、このテーブルの火のなんと御し易い事か。
「
ヴァルアリスはおもむろにトングを使い、全ての肉を一気に網の上に乗せた。
じゅう、という心地よい音とともに、タレに漬け込まれた肉が焼ける良い匂いが漂い始める。
(おお……この音、良いな。間近で聞くのはなかなか無い機会だ)
上機嫌になっていると、突如網の上に炎が上がった。その炎は見る間に肉を包み込んでいく。
「なっ……!?」
炭火の火力は扱いが難しい。火力が高いところへ肉を一度にたくさん乗せたため、滴り落ちる油がまとまってしまい、引火したのである。
危うし、ヴァルアリス!
このままでは焦げが発生し、せっかくの肉に苦味が付いてしまう事は必至。望まざる直火焼きの発生に、ヴァルアリスの思考は高速で対処法を探る!
案1:冷凍して温度を下げる……却下。発動を極小に抑えたとしても肉を凍らせてしまう恐れがある。
案2:網上の時間を停止させる……却下。膠着状態を招くのみ。根本的解決にならない。
案3:網上の時間の流れを遅延させる……惜しいが、却下。その状態での物理干渉は相対的に超高速となり、肉が爆裂する。
「つまり、正解はこう!」
ヴァルアリスは右腕の袖を捲り、
そのまま複数の箸を同時に使って肉を皿の上に一時退避。全て無事、問題なし!
その様子を見つめる店員・チャウは、ただ息を呑み、一歩も動けずにいた。
網の上に火が上がった時は助けに入ろうと思った。しかし、まさか客の右腕が六本に増えるとは思わなかったのである。
そして、焼肉店のマナーとして腕を増やさないで下さいと注意すべきなのかどうなのかがわからなかったのである。
彼女は考えるのをやめた。腕が何本になろうとも、美味しく肉を食べてくれればそれで良いのである。焼肉店の店員が考えるべきはそれに尽きる。
ただ、彼女は少しだけ故郷ベトナムの空が恋しくなったのだった……。
店員の郷愁などいざ知らず、ヴァルアリスは焼き上がった肉を前に深呼吸を繰り返していた。
(ま……まずはこの、いかにもテラテラとして美味そうなハラミとやらを)
小皿に取ったタレを付け、まだ湯気を立てている熱いハラミを一切れ、恐る恐る口の中へ。
(おおお……ッ!!)
原始的欲求の充足!
顎を動かし、肉を噛む。そのたびに、筋繊維を歯が断ち切る快感が駆け巡る。そして溢れる肉汁の旨味、とろける脂の旨味……!
肉を食べるという行為は、何故かくも心を幸せで満たすのか?待ちわびた邂逅という感動を差し引いても余りあるほどの多幸感がある。
さらにこの甘辛いタレと肉の相性はどうだろう。食欲を掻き立て、ただでさえ美味い肉のポテンシャルを最大限に引き出す調味料ではないか!
そして何より、この濃厚な味わいを受け止めるのに最適の友たるご飯がそこにあるのだ!
(確かに美味い。美味いぞ……だが、しかし)
もぐもぐとハラミを咀嚼するヴァルアリスの目が、突如ギラリと冷酷な光を帯びた。
(これは、人類の文化の象徴として残すには値しない!)
ああ、それはどういう事なのか!
満面の笑みで口いっぱいにご飯を頬張るヴァルアリスは、一体焼肉の何が気に入らなかったというのか……!?
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