第18話 港区新橋の温玉うどん(前)

 あいにくの雨であった。

 此度のヴァルアリスは、港区は新橋駅の烏森口付近に降り立っている。辺りはビジネス街であるが、すでに時刻は0時を回っており、終電に駆け込もうとするスーツ姿のサラリーマンやOLがちらほらと見えるばかり。

 目的地もなく闇雲に転移をしたせいであろうか。


 Time(時)、Place(場所)、Occasion(場合)に合わせてスーツ姿のヴァルアリスは、これまたTPOに合わせた安物のビニール傘をさし、虚ろな目つきで通りを歩く。

 時間が時間だけに飲食店の灯も軒並み消えて、しとしとと路上に降る雨音が侘しい空気を醸し出していた。


 ああ、しかしこの時間に、立ち並ぶオフィスビルにポツポツと明かりを灯す部屋があるのはどうしたわけだろうか……?

 昼夜交代制の勤務体系によるものと思いたい……決して「今日中にお願い」と言われた作業を明朝の始業時間に間に合わせるべく奮闘している者が居るわけではないと……思いたい!


(私は影……異界の闇を彷徨う、ただ一つの影……)


 謎の言葉を唱えつつ、ヴァルアリスは右に左に揺れながら歩く。一刻も早く何か食べた方がいい!


 しかし今やヴァルアリスは深い考えを抱きようもなく、ただ誘蛾灯に群がる虫の如く眩しい灯に吸い寄せられていくのみであった。

 その灯とは……おお、竜魔神姫トンデモナイゼ!まさか今回はこのコンビニで夜食を調達しようというのか?

 昨今のコンビニ飯といえば技術の発展もめざましく、価格を抑えながら味の面でも顧客を満足させるべく日夜研究がなされている。その成果は、時に飲食店さえも凌ぐ。

 しかし、ある意味狂人の域に達する職人達の業を堪能して来たヴァルアリスを満足させるレベルのものが存在するのだろうか?


 慎重に、棚に並ぶ商品を吟味していく。

 お肉たっぷり牛丼、豚バラチャーシューおにぎり、マヨ唐揚げ弁当……どれも皆ハイカロリーで美味そうなのだが、しかし魅力的に感じられない。空腹ではあるのに、山のような商品のアピールポイントがどこか上滑りしていく。

 判断力が低下しているところに山のような情報を突きつけられ、無意識に遮断してしまっているのだ。結果、見たものが目には入るが、頭には入らない。

 代わりにコンビニの入り口付近、ヴァルアリスが傘立てに差した傘をひょいと持ち上げて歩き去っていくサラリーマンの姿が見えた。


 ヴァルアリスは一瞬目を疑った。

 何故、自分の傘を見ず知らずの人間が持っていくのか?

 ようやくその意味に気がついた時、ヴァルアリスはコンビニを飛び出し、無詠唱ナンモイワンで魔法を発動させていた。

 黒化殲影掌テオギュットスル

 ヴァルアリスが手を着いたアスファルトが変形、巨大な手となってサラリーマンを掴み、そのまま握り潰す!


「ぐぎゃあああー!」

「何をしている。人間……!」


 すかさず復元蘇生魔法シンデナカッタッスを発動し、サラリーマンを再びこの世に蘇らせた。

 蘇生したサラリーマンは依然巨大な手に掴まれ、高々と持ち上げられている。


「言え、人間! 何故私の傘を奪った!」

「かっ、買うのが面倒臭くて……」


 あまりにも自分本位な理由。

 ヴァルアリスの怒りは一層激しく燃え上がる!


「面倒臭いだと? 巫山戯るな! 傘を盗まれた側はもっと面倒臭いだろうが!」

「ぐわあああーっ!」


 サラリーマンを握り潰す!すぐさま蘇生!


「そこのコンビニで、たかだか三百円も出せば買えるではないか! 貴様には常識というものが無いのか!」

「ぎゃあああーっ!」


 サラリーマンを握り潰す!すぐさま蘇生!

 ヴァルアリスは唐突に冷め、サラリーマンを路上へ放り出してその場を離れた。

 滅界儀式ホロボシタルの厳格なるルールがある以上、彼女は人間に対し危害を加えることはできないのである。


「虚しい……何もかもが虚しい……」


 ぶつぶつと呟きながら歩き去っていくヴァルアリスを呆然と見送るサラリーマンは、路上に座り込み立ち上がれずにいた。

 アルコールに惚けた頭でも、たった今自分が何か超自然的な存在によって命を奪われる寸前であった事は理解できる。

 本当は三度ほど奪われているのだが……。


(二度と、人の傘を盗るのはやめよう……)


 心から思った。

 明日部下に押し付けるつもりだった面倒な仕事も自分でやろう。最近飲み過ぎている酒も健康のために控えよう。長らく連絡を取っていなかった実家の両親にも電話しよう……

 生まれ変わった気持ちでそう誓う彼は、もはや聖人のごとき顔つきになっていた。




 うっかりサラリーマンごと握り潰してズタボロになったビニール傘を手に、ヴァルアリスは再び歩き続けている。

 雨を防ぐ手段ならばいくらでもあるが、濡れたとしても所詮人界の雨。ものの数分で生命を溶かし尽くす魔界の雨とはわけが違う。


(やはり人類は愚かだ。このままでは愚かの最大値を際限なく更新し続けるぞ……一刻も早く絶滅させねばならない)


 今しがたの出来事で、ヴァルアリスの人類に対する印象は大幅に悪化した。出来心で傘を盗んだばかりに、命を落とすだけでなく人類の命運まで左右するとは、かのサラリーマンも思いもよらなかったであろう。


 今さらコンビニに引き返すこともできずうろつき廻っていると、ふと麦の穂とうさぎをデザインしたマークが目に入る。

 この時間にまだ営業している飲食店……"うの善"という、全国チェーンのどこにでもあるうどんの店だ。そしてこの支店は、都内に数件存在する二十四時間営業の店舗であった。

 今夜この店を逃せば、もはや機会はない。ヴァルアリスは決断的に店内へと足を踏み入れた。




 ずらりと並んだ食券のメニューを前に、ヴァルアリスは暫く思案した。

 きつね、たぬきはわかる。どちらも人界に生息する四足獣。肉が入っているのかダシを取っているのかは不明だが、とにかくそれらを使ったものなのだろう。

 天ぷらうどん……カレーうどん……肉うどん。またしても過剰な情報量が脳を圧迫してくる。迷った挙句、ヴァルアリスは一番左上のかけうどんのボタンを押した。

 積極的な選択ではない。氾濫する情報から逃れ、少しでもシンプルなものを求めた結果であった。

 この期に及んで未だ、ヴァルアリスは食を求める心境に至っていない……いったいどうしてしまったのか!




 この日、うの善で接客と調理を担当していたのは深夜パートの店員・神埼ふさ子。齢四十七を迎え、最近は髪に白髪も増えてきた二児の母である。

 長女の就職もなかなか決まらず、次女は今年高校受験。夫の収入だけではやりくりは難しく、まだまだ稼がなければならないが、いったいいつまで頑張れるものかと不安は尽きない。


 食券を受け取った神埼ふさ子は、沸騰した湯でうどんの麺を茹で、どんぶりに盛ってつゆを注ぐ。

 マニュアルに沿った調理方法である。そこに、個人の拘りや工夫など挟む余地はない。

 突出して不味いなどという事態はもちろんのこと、突出して美味い、という事さえチェーン店においてあってはならないのだ。

 神埼ふさ子は己の心を殺し、ただ一つの歯車となって滞りなく製品を提供する……!




 そうして作られた何の変哲も無いかけうどんをトレイに乗せ、ヴァルアリスは席に着いた。

 どんぶりの中では真っ白なうどんが薄く澄んだつゆに浮かび、ほかほかと湯気を立てている。具材といえば僅かな小口切りの葱のみ。いたってシンプルな構成と言えよう。


 中途半端な位置で折れた割り箸を手にし、ヴァルアリスは不思議と落ち着いていた。

 目の前のうどんを見つめ、ある一つの発想に心を囚われていたからである。


(食べなければいいのでは……?)


 なんたる事か。

 様々な要素が化学反応を起こし、とうとうヴァルアリスは誰もが薄々気が付いていた必勝の方法に辿り着いてしまったのである!


 今までヴァルアリスは、様々な料理に敗北してきた。一口食べたらやめられず、残して持ち帰るということが出来ずにいた。しかし、食べずに封印して持ち帰ればどんな美食であろうと負けることはない!


「フ……何とも呆気ない幕切れ。しかし、長き死闘の終わりなど得てしてこのようなものかも知れぬな……」


 どんぶりに向かい、どこか哀愁を含んだ微笑みを向けるヴァルアリス。

 このままでは……人類が存在した証、文明の結晶は、手付かずのかけうどんになってしまうのだ!

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