第9話 夏祭り屋台のかき氷(前)

 それはある暑い夏の夜のこと。

 とある神社にて、毎年恒例の夏祭りが行われていた。


 広い境内は人でごった返し、陽気な太鼓と笛の音が響き渡っている。

 闇の中にオレンジ色の提灯の光が点々と浮かび上がり、出店の客引きの声があちらこちらから飛び交い、熱狂的な風景を作り上げていた。

 祭りとは、実に手軽な非日常の空間である。


 その非日常の喧騒の中に、竜魔神姫トンデモナイゼヴァルアリスの姿はあった。

 髪をシニヨンに結い上げてかんざしで留め、浴衣は白地に青の紫陽花柄。

 猛暑の夜というのに汗一つかかず涼やかに歩くヴァルアリスの姿には一分の隙も無く、ナンパ目的の男達などはかえって気後れし、遠巻きに眺めはすれど声をかけられずにいた。


 夏の風物詩という扱いを受ける浴衣だが、実際着てみるとさほど涼しくはない。お腹周りをがちがちに帯で締め、裾も長いので熱が逃げにくいのだ。

 その点、魔族は魔力による体温調節が可能なので安心である。

 魔界生まれ魔界育ちの竜魔神姫トンデモナイゼがいかにして浴衣の着付けを行なったのか、それは乙女の秘密として伏せさせて頂こう。


 さて、そのヴァルアリスは今、屋台で水風船を一つ買い求めていた。

 手にとって眺め、おもむろに大きく口を開けて水風船にかぶりつこうとした、その瞬間。


「それ、食べちゃだめだよ」


 横合いから声がかかった。

 思わずそちらを見やると、浴衣を着た少女がヴァルアリスの袖を引いている。年のころは十歳になっているか、いないかというところだろうか。

 ヴァルアリスは水風船を口元から離し、平静を装って答えた。


「……知っている」

「嘘だあ。今、完全に食べるところだったじゃん」


 水風船はゴム製の風船の中に水を入れ、手でついて遊ぶ玩具であるが、魔界生まれ魔界育ちのヴァルアリスがこれを知らないのも無理からぬことであった。

 思いつきで祭りにやってきたため、下調べの暇もなかったのである。


「……」


 気まずいので無言でしらばっくれていようとしたヴァルアリスであったが、少女はそのまま立ち去ろうとしない。


「何用だ?」

「わたし、お母さんとはぐれちゃって」

「そうか。私は知らん」


 仕方なく自分がその場を去ろうとするヴァルアリスだったが、少女の手は袖を掴んだまま離さない。


「わたしはお前の母親ではないが」

「浴衣が似てたから、間違えちゃったの」

「似ていたとしても本人ではないぞ!?」


 ぴしゃりと正論を言い放っても、少女は変わらずヴァルアリスの袖を掴んだままである。


「せっかくだから、お母さん探すの、手伝って」


 なんと勝手な言い分。しかし、ヴァルアリスには彼女の手を力任せに引き剥がせない事情があった。

 滅界儀式ホロボシタルである。異界の魂を根こそぎ奪い尽くすこの儀式には、守るべき厳格なルールが存在する。

 そのうちの一つが、下準備が済むまで対象とする世界の生命への殺傷、および物品に対する破壊行為を禁ずるというものであった。


(こうなれば何らかの魔法で振り切るか……)


 そこまで考えて、ふと、ヴァルアリスは少女の手が細かく震えていることに気がついた。

 何のことはない。親とはぐれ、人混みの中で藁にもすがる思いで声をかけてきたものと推測できる。

 そのような怯えに寄り添うほど慈悲深くはないヴァルアリスであったが……何の気の迷いか、袖を掴む少女の手を握った。


「こうした祭事には運営本部が設置されているもの。迷い子の案内もしていよう。そこまでは連れて行く」


 至極真っ当な判断である。

 少女の表情が、救いを得たとばかりにぱっと明るくなった。


「私、美月。お姉さんは?」

「……春ありす、と呼ぶがいい」


 それはヴァルアリスが、人界において真名を秘匿する際に使用する偽名であった。



 運営本部のテントはさほど遠くはない場所に見えるが、なにぶん人が多いために歩みは遅々としたものになる。

 道すがら、延々と立ち並ぶ屋台の品にいちいち目を引かれるヴァルアリスを見かねて、美月が心配そうな声を上げた。


「大丈夫? ありすお姉ちゃん、さっきみたいに変な物食べちゃダメだよ」

「ばっ、馬鹿にするな。見よ、あれなら知っている」


 そう言ってヴァルアリスが指し示したのは、金魚すくいの屋台であった。


「踊り食いというやつだな。あの薄い皮に魚を乗せて食べるのであろう……ふっ、魚を乗せる前に次々と皮が破れているぞ。まったく愚かなものだ」


 苦笑するヴァルアリスに向かい、美月はおずおずと告げる。


「金魚すくいは食べ物じゃないよ……」

「な……何だと!?」


 自信を持って言い放っただけに、ヴァルアリスの衝撃は大きい。


「馬鹿な。では、何のために魚を取るのだ」

「飼うため、じゃないかなあ」

「くっ……ならば、わかりやすくそう書いておけ……!」


 忌々しげに歯噛みするヴァルアリスを眺め、美月はくっくっと可笑しそうに笑った。


 境内に、この妙な二人組を気に留める者が居なかったわけではない。

 しかし人外の存在めいて美しい浴衣の少女が、これまた浴衣少女と手を繋いで歩くその姿は、迂闊に声をかければめくるめくジュブナイルストーリーの登場人物として巻き込まれそうな予感を抱かせる。

 そのような冒険的非日常へ挑む覚悟を持つ者は無かった。


「ははあ、わかって来たぞ。あのリンゴも食べ物ではなく観賞用だな」

「あれは食べられるよう」


 りんご飴の屋台を指差して得意げに看破したつもりのヴァルアリスであったが、美月により即座に否定された。


「なっ、ならばあのふわふわした物体は? さすがにあれは食用では……」

「綿あめも食べられるよ。甘くておいしいよ」

「むう。食物と玩具の区別が付かん!」


 翻弄されっぱなしのヴァルアリスであったが、これは意外に真理を突いていた。

 祭というのは非日常の空間であり、そこで提供される食べ物もまた非日常を演出する傾向が強い。必然、けばけばしいほど色鮮やかな見た目や、食べやすさを度外視した玩具的な性質を持つものも少なくないのである。


「ありすお姉ちゃん、お祭り来たことないの?」

「祭り自体はある……こういう形式は初めてなだけだ」

「ふうん……」


 魔界において、ヴァルアリスにとって祭とは城内から眺めるばかりのものであった。町まで降りてみたら、景色はまた違ったのであろうか。


 突然美月が立ち止まり、手を握っていたヴァルアリスまでつんのめりかけた。


「な、何だ? 急に止まると危ないではないか」

「あれ、やりたい」


 美月が指さしているのは射的の屋台だ。


「……遊んでいる場合ではなかろう」

「やりたいの!」


 唐突に我儘を言い始めた美月に困惑しつつも、ヴァルアリスは渋々射的の屋台へと足を運んだ。


 射的とは、コルク製の弾丸を詰めたおもちゃの銃で棚に並べられた景品を撃ち、景品を倒せば取得できるという遊戯である。

 まずは美月が構えて一発。

 すぽん、という気の抜けた音とともに発射された弾丸は狐のお面に当たったが、重心を捉えず倒すには至らない。


(あれで倒れないとは、やはり人類の道具は性能が悪いのだな)


 ヴァルアリスは嘆息したが、これは大きな誤解である。あくまで遊戯性を高めるための工夫であり、コルク銃は製作者が威力を追求した上でこの性能になっているわけではないのだ。


「よかろう。今の一射でこの武器の性能は把握した……!」


 今度はヴァルアリスが銃を構え引鉄を引く。弾丸は狐面の脇を逸れ、命中すらしない……しかし、全ての景品が同時に倒れた!


「えーッ!?」


 面食らったのは射的屋の店主である。

 これはヴァルアリスの魔法、風勢旋烈撃舞フットバシタルの効果であった。コルクの弾丸が発生させる風圧を増幅し、その上で散弾のごとく分割したのである!


「はっはっは! 景品は全て戴くぞ」


 高笑いするヴァルアリスとは対照的に、射的屋の店主は大慌てである。


「ちょっとお客さん、勘弁してくださいよぉ。今、何かしましたよね!?」

「……してない」


 しらばっくれようとするヴァルアリスだったが、美月がちょいちょいと袖を引いて声を上げる。


「お姉ちゃん、ズルは駄目だよ」

「……ズルなどしていない」


 美月はあどけない目でまっすぐにヴァルアリスを見上げている。


「駄目だよ」

「……」



 結局、ヴァルアリスは景品のうち一番安いポケットティッシュ一個を貰い受けることで手を打った。

 完全に納得したわけではないが、これ以上揉め事を起こして時間を食うのもよくないという大人の判断である。

 王を目指す者としては、時には理不尽に耐え、広い度量を示さなくてはならないのだ。


「暑いね」


 いつの間にか美月の額には汗の粒が浮かんでいる。

 これはヴァルアリスにとって由々しき事態であった。手を引いて連れ歩いているうちに体調を崩した場合、ヴァルアリスが人類に危害を加えた扱いとなるのか否か、滅界儀式ホロボシタルのルール的に微妙なところではある。


「……何か飲むか。脆弱な人類は、こまめに水分を補給しなければすぐ健康状態に異常をきたすのであろう」

「うん」


 後半については何を言っているか全くわからなかったようだが、美月は最初の一言のみに同意した。


「私、あれがいい」


 美月の小さな手が指差したのは、かき氷の屋台であった。

 ヴァルアリスは知らない食べ物であったが、イチゴ、レモン、メロン、ブルーハワイと種類が選べるらしい。


「メロンがいい」

「……では、メロンとイチゴを」


 機械によってブロック状の大きな氷の塊が削られ、カップに盛られた。かけられるシロップは蛍光色の鮮やかな赤と緑、一杯200円の安価な食品だ。

 美月はさっそくスプーンですくってかき氷を美味しそうに食べ始めている。


 しかし、何気なくかき氷を一口食べたヴァルアリスは憮然たる面持ちで呟いた。


「何だ、これは……?」

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