第10話 兵庫県神戸市のビーフカツレツ(後)

 ピークを過ぎ、人影まばらとなった店内。

 ヴァルアリスはビーフカツレツ定食を、ニルファナスはビーフカツレツ定食の大盛りに加えてエビフライを注文した。


 店員・三好大樹は混乱の極みであった。

 無理もない。仕事を手伝ってくれる妖精さんだと思っていた二人のウェイトレスが、そろって店内で食事を注文したのだ。

 しかし注文を受けた以上はその品を提供するのが店員の務めと割り切り、速やかに厨房へオーダーを通した。


 店長・松木亭一もまた、混乱の極みであった。

 寂しさから、今は離れて暮らす娘・みち子と妻・よし恵の幻覚を見たものと思っていたのが、二人とも着席し食事をしようとしているのだ。

 しかし食を求める客あらば腕を振るうのが調理人の務めと割り切り、迅速に調理へと取り掛かった。

 これこそがプロというものなのだ。



 そんな店主と店員の苦闘を知る由もなく、ヴァルアリスは母ニルファナスに対して自らが勝利を確信する理由を語っていた。

 厨房からは、揚げ油の泡が弾ける音が雨音のように響いている。


「カツといえばメンチカツ、あるいはトンカツ。そして、牛を食すならば焼き肉、もしくはステーキ。私はいずれも最高の物を食したことが有ります」


 それは苦い敗北の記憶。

 しかしそれ故に今でも鮮烈に脳裏に焼き付き、反芻することができる。


「あえて牛肉の塊をカツにする意味が見いだせません。名物を作ろうと奇策に走った結果に過ぎないものと判断します」

「なるほど。無意味に王道から外れたメニューなど、脅威に値しないと……そう言いたいのですね?」

「その通りです」


 説明を受けても、ニルファナスはただ涼し気に微笑むばかりである。

 その余裕にヴァルアリスは言い知れぬ不安を感じ、思わず話題を変えずにはいられないほどであった。


「……母上。ひとつお聞きしておきたいことがあるのですが」

「何でしょう?」

「母上は、魔界へ戻りたいとは思わないのですが。また、父上と共に暮らしたいとは思わないのですか」


 私と共に、とは聞けず、あえてそう聞いた。

 そしてこの問いに、ニルファナスは穏やかな微笑みを崩さず答えた。


「それは私が決めることではありません。あの人……ザドゥム様のお気持ち次第となるでしょう」


 打ち合わせたわけでもあるまいに、まるでザドゥムと鏡写しのような解答。

 そこには何か目に見えぬ絆があるように感じられ、ヴァルアリスは戸惑った。

 そしてそれ以上会話をする前に、注文の品が到着してしまったのである!


「ビーフカツレツ定食二つ、お先にお持ちしました。こちらは大盛りです」

「何だと! は、早過ぎる!」


 ヴァルアリスはビーフカツレツについて深く予習していない。

 所詮トンカツの豚が牛になっただけのもの、さほど違いもあるまいと高をくくっていたのだ。

 揚げ時間も同等にかかるものと思い込んでいただけに驚きを隠せない。


 調理速度の秘密を探らんとするヴァルアリスの視線は、赤みを残したカツの断面に吸い寄せられた。


(そうだ……配膳の際にも思ったが、このカツは中まで火が通っていない。調理を急ぐあまり、生焼けで提供しているではないか?)


 続いてヴァルアリスの視線は、カツの半分ほどにたっぷりとかけられたソースに移る。


(この薄い色のソース。本来カツといえば中濃ソースを用いるはずだ。おそらく、薄味のソースだが量を多くしてごまかそうという姑息な判断であろう!)


 ヴァルアリスは、指先で捉えた割り箸をぱきりと二つに割った。

 テーブルにはナイフとフォークも用意してあるが、気兼ねなく箸で食せるのが日本の洋食店の強みである。


(やはりビーフカツレツは奇策! 堂々たる心構えで挑めば勝利は確実……!)


「では、いただきましょうか」

「いただきます!」


 母ニルファナスに遅れまいとするように実食に入る。


(さあ、私は今度こそカツに勝つ……勝……つっ!?)


 ビーフカツレツの一切れを口にして、早速ヴァルアリスの目から星が飛んだ。

 それは今まで食したメンチカツやトンカツの衣とは全く異なる食感!

 きめの細かいパン粉を使用した衣は、余分な脂を吸わずサクサクした軽い食感を生み出す。

 口溶けもよく、たっぷりかけられたデミグラスソースとの相性も抜群!


(ん……んん……んんん!?)


 そのまま、思わずカツを噛みしめてしまう。

 分厚い赤身の肉でありながらきめは細かく、レアでもすっと噛み切れるほどの柔らかさ。そして溢れだす肉汁!


(なっ……何故だ。火の通り具合が……これで丁度いいというのか!?)


 生焼けなどと侮るのは大いなる誤解だ。

 ビーフカツは高温の油を使用して短時間でさっと揚げ、レアな部分を残して仕上げるのが特徴。

 中でも洋食グリルまつきのビーフカツレツは、店主・松木亭一が牛肉の旨みを最も引き出すべく試行錯誤を繰り返して辿り着いた最高の火の通し具合!


 そして少し酸味のあるデミグラスソースが肉の甘みを引き立てる……!

 このソースは洋食グリルまつき創業以来継ぎ足して作られる魂の味。

 かつて松木亭一は、店が火事になった際もこのソースを入れた寸胴だけは抱えて外へと運び出したほどだ。

 それほどまでに重要な、まさに命のソース!

 牛スジとたっぷりの野菜、香草を加えてじっくり煮込んだそのまろやかな深みを薄味呼ばわりすることなど絶対に許されない。


 衣にしてもソースにしても、洋食グリルまつきのビーフカツレツは牛肉の美味しさを最大限に引き出す構成なのだ。

 トンカツを基準として単純比較したのがヴァルアリスの迂闊!


「こんなバカなことが! ビーフのカツは……奇を衒った変わり種ではないのかっ!?」


 神戸の牛の歴史は古い。

 牛肉食の文化が広まる遥か前、平安時代初期に編纂された「続日本紀ショクニホンギ」で既に、兵庫県北部にあたる但馬地方の牛について「食用に適す」との記述があるほどだ。

 悠久の時を経て飼育法に改良を重ね、かつ血統を守り、その牛は神戸ビーフとして世界に知られる美食の一つとなった。


 そして名物あれば、長い歴史の中でその調理技術もまた洗練される。

 土地が変わればそこには異なる歴史があり、異なる王道がある。一つの常識で全てを測るべきではないのだ!

 その歴史の産物が次々とヴァルアリスに牙を剥く!


「さあ、エビフライも到着しましたよ。ヴァルアリス」

「は、母上!」


 ニルファナスがナイフで切って差し出したのは、タルタルソースを添えたエビフライ。

 抗えるはずもなく口に運ぶ。

 サクサクの熱い衣に閉じ込められ、口の中ではじけるプリプリした海老の豊かな甘み……!

 卵たっぷりのタルタルソースにはエシャロットやケッパー、パセリ、マスタードやワインビネガーまでも加えられ、甘味、苦味、酸味、辛味、繊細な風味のバランスが取れ奥深い味わいを実現している。


「新鮮そのもの、食べ応えも抜群な大ぶりの天然有頭エビを惜しげもなく使用したこのエビフライ。時期こそ限られるものの、洋食グリルまつきのもう一つの名物なのです」

「母上! これはご飯が進んでしまいます!」


 満足げに微笑むニルファナスは、なおも追撃の手を緩めない。


「ヴァルアリス。キャベツの千切りも食していますか?」

「ま、まだですが……しかし、所詮キャベツの千切りなど付け合わせでは?」

「甘いですよ、ヴァルアリス。優れた店はキャベツ一つとっても手を抜かない」


 そう、隠れたファンの多い洋食グリルまつきの千切りキャベツ!

 シャキシャキした歯応えが楽しめる内側の葉と、甘く柔らかな中心部分が同量になるよう調節し、繊細な細さを保って千切りにしたキャベツはビーフカツレツの最高の相棒なのだ。

 これも店主・松木亭一が、千切りキャベツの海で溺れる悪夢を見るほどにキャベツを刻み続けて辿り着いた成果。

 料理のかさ増しなどという扱いをするのは言語道断!


「ふわりと弾力がありつつ、シャキシャキした食感も失われていないっ……カ、カツに合いすぎる!」


 軽やかでサクサクの衣と、芳醇なデミグラスソースをたっぷり吸ったトロトロの衣。それを破った先に、柔らかくて厚みのあるビーフの味わいがどっしりと控えている。

 合間に挟み込む、爽やかな千切りキャベツとほかほかのライス。

 旨みの詰まったエビフライ、コクのあるタルタルソース。


 まさに山あり川あり、歴史あり、洗練された都市あり、国内外の文化が入り混じった神戸という街そのものを食すかのような一大スペクタクル!


 ヴァルアリスは、無我夢中で食した。

 怒涛の勢いで、ライスの最後の一粒まで綺麗に食してしまった。

 それは即ち、この神戸の地で二度目の敗北を意味している。


「ごちそう……さま、でした……」


 ヴァルアリスは半ば放心状態で両手を合わせ、挨拶をする。

 ぐうの音も出ないほどの敗北である。


(何故だ……こ、こんなはずでは……)


 魔界生まれ魔界育ちのヴァルアリスには知る由もない事だが、そもそも今回ヴァルアリスが勝利の要因として挙げたこの店の立地については、深い物語があるのだ。


 かつて洋食グリルまつきの店舗は、同じ市内でももっと山側、北野坂方面にあった。

 しかし老朽化が進んでいた建物はある日天井の一部が崩落し、火災も発生。復旧の目処が立たず閉店に追い込まれたのである。


 この時力を貸したのが、地元の常連客たちであった。洋食グリルまつきのランチが食べられなくなるなど耐え難い、その思いが彼らを突き動かした。

 手分けして急遽代替の店舗を格安で用意し、店内に必要となるインテリア、椅子、テーブル、調理器具や食器をもかき集めたのだ。

 現在は店員の三好大樹も、元はこの時助力を申し出た常連客の一人!


 そして常連客達から新天地でやり直すための全てを贈られた松木亭一は感涙に咽び泣き、生涯この店で美味しい食事を作り続けることを誓った。


 そんな松木の情熱を込めた仕事が、移転後の店に以前と同様の盛況を呼んだのである。

 行列に並ぶ客たちは苦痛を感じているわけではなく、メニューを眺めつつ期待に胸を膨らませ待ちわびているのだ!


「ヴァルアリス、これが西の力です。……次は古き地にて会いましょう」


 食事代と謎かけのような言葉を残し、ニルファナスは席を立つ。

 ヴァルアリスはその背を呼び止めることはしなかった。

 自らの敗北を深く噛み締め、天を仰ぎ、竜魔神姫トンデモナイゼは魔界への帰還を開始した。



 一方、厨房に立つ店主・松木亭一は、いつの間にやら店内から居なくなったヴァルアリスとニルファナスの姿を探し、やがて諦めると懐から一枚の写真を取り出した。


「みち子。よし恵。早く帰ってくればいいのになあ……」


 料理修行のために海外留学に出ている娘。その様子を見に行って三日前から留守にしている妻。

 愛妻家かつ子煩悩な松木亭一は、こうして空いた時間に娘と妻の写真を眺めることで疲れを癒すのであった……!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る