第9話 兵庫県神戸市のビーフカツレツ(前)
魔界より転移したヴァルアリスは、再び兵庫県神戸市を訪れていた。
変化を恐れぬヴァルアリスが、なぜまた同じ神戸の地に立ったのか ?
それは
多様な側面を持つ神戸の中の、南京町というごく限られた一面を味わって撤退するのはあまりに惜しい、という判断によるものだった。
同じ神戸市の中央区でも、今回ヴァルアリスが訪れたのは三宮駅付近である。
三宮駅と言えば、複数の路線が乗り入れる神戸の中心地にして交通の要。
三宮センター街やさんちか(三宮地下街)を含む大規模な繁華街を有し、歩道や中央分離帯には色とりどりの花が咲くフラワーロードもある。
雑多なジャンルの個人商店がひしめく、元町へ続く高架下。そして創建西暦201年の歴史を持つ生田神社。
まさにどこへ行っても楽しめる、見どころ満載の街なのだ。
とはいえ、ヴァルアリスはそれらの魅力的な観光地には目もくれず、通販で入手したガイドマップを手に一軒の店を捜し歩いていた。
本日の装いはガウチョパンツにボーダーのトップスを合わせ、肩には籠バッグ。隙の無い定番のマリンルックだ。
「むう……地図アプリの精度が低い」
スマホの画面を眺め、ヴァルアリスは独りごちた。
画面上に表示される赤い点と実際の現在地が微妙にズレている。そして指二本を使って拡大、縮小を繰り返しても、スマホを回転させてみたりしても、いつまでもそのズレが修整されないのだ。
これが人類の技術の限界かと、ヴァルアリスはあきれ果てた。
「しかし読めたぞ。ここから山側に十数メートル。そこが目的の地点であろう」
どこからでも北に六甲山、南に大阪湾を確認できる三宮界隈では、方角を南北ではなく山側、海側と称することがある。
案内板などにも普通に「山側」「海側」という表記が現れるこの現象は知らずに直面すれば混乱すること請け合いだが、その点はさすがの
そこからは迷うこともなく歩みを進め、ヴァルアリスはとうとう目的地へ到着した。
店の名は「洋食グリルまつき」である。
こぢんまりとした作りだが、洋館風の白いオイルペンキ塗りの外壁と緑の屋根が目に美しく、開港以来異国の文化を積極的に吸収してきた神戸の街に相応しい情緒を醸し出している。
しかし、店の前に到着したヴァルアリスは思わず絶句した。
「なっ!?」
入店を待つ客が作る長蛇の列があまりに長くて並びきれず、道路を挟んで反対側にまで伸びている!
「お……のれ……謀ったな!」
誰も謀ってはいない。
ヴァルアリスが購入したガイドブックには「この店は混雑する事もあるので早めの入店を」と記載されていた。
ヴァルアリスは開店時間の十分前を目指して来店したが、アプリの表示をあてにしすぎて道に迷い、十五分遅れたのだ。
つまり当然の結果である。
(くっ……業腹だが、こればかりはどうにもならん。耐えて待つのみか)
しぶしぶ列の最後尾に並んだヴァルアリスがため息をついた、その時であった。
「甘いですよ、ヴァルアリス!」
朗々と響く声に、ヴァルアリスは思わず顔を上げて周囲を見渡した。
声の出所は、洋食店のはす向かいにある四階建ての不動産会社のビル……その屋上である!
「母上!」
まさかという驚きがあり、その一方で、やはりという安堵もあった。
そこに立つのは紛れもなくヴァルアリスの母、ニルファナス。
先日の静岡での邂逅といい、どのようにしてヴァルアリスの行く先々に現れているのか。何も美食のあるところにニルファナスの影ありというわけではないだろう。
ないと信じたい。
「望みが叶わないと諦め、機が訪れるのをただ黙って待つ……それがあなたの考える王の道なのですか?」
厳しい言葉がヴァルアリスの胸を打つ。
行列待ちの人々は一瞬何の寸劇が始まったのかと不思議そうに眺めたが、行列に並びながら注文する品を迷っているので関心は半分程度だ。
「し、しかし母上。
ニルファナスは静かに首を振り、足早に非常階段を降り始めた。
1分ほどかかって階段を降り終え、すっかり息が上がったニルファナスはヴァルアリスの肩に手を置く。
「それは、はあ、はあ、思考の、硬直というものですよ、ヴァルアリス。ゲホッ、あなたならば、たどり着くことが、できるはず……もう一つの答えに!」
「母上……!」
母からの信頼には何としても答えねばならない。
ひとたび意思に火が灯れば、億の軍勢をも討ち亡ぼす
「母上……掴みました。道は一つではない。可能性は無限に開かれている!」
ヴァルアリスは即座に
丈の長いシンプルラインのワンピースにエプロン。
そしてフリル素材のホワイトブリム。
一瞬にして原子分解・再構成が行われ、ヴァルアリスの衣服が上品なハウスメイドのものへと切り替わった!
「どうやら、解を得たようですね。ヴァルアリス」
穏やかに微笑むニルファナスを置き去りに、ヴァルアリスは堂々と店内へと踏み込み、席に着いたばかりのカップルに呼びかける。
「ご注文はお決まりか!」
「えっ? あ、ああ。はい」
若干言葉遣いに違和感を覚えつつも、カップルはメニューを指さし注文した。
何しろ空腹なのである。
空腹の前では、細かい違和感など消し飛んでしまう。
むしろ戸惑ったのは元から「洋食グリルまつき」のウェイターを務めている男、三好大樹であった。
ランチタイムの店内はまさに目の回る忙しさ。それが、突然人間離れした美人ウェイトレスが現れてオーダーを取り始めたのだ。
(これはいわゆる、『仕事を手伝ってくれる妖精さん』の幻覚では……)
妖精さんは、締め切りに追われる作家や徹夜で卒論を作成中の学生の前に現れるという、伝説的存在である。
ヴァルアリスをそのようなものと思い込んだ三好大樹は恐怖した。
恐怖のあまり、彼はヴァルアリスを無視した。
一方、厨房でフライパンを振る店主・松木亨一はどうであったか。
彼は忙しい調理の合間にホールを一瞥し、天使のようなヴァルアリスの姿を目の当たりにした。
「みち子……!?」
ヴァルアリスはみち子ではない。
しかし店主・松木亨一は、かいがいしく働くヴァルアリスの姿に、今は離れて暮らす娘・みち子の姿を重ね合わせてしまったのだ。
特に背格好が似ていたわけでは無いが、時折店の手伝いをしてくれていたみち子は、忙しないランチタイムにもきびきびと動き、いつも溌剌としていた。
ヴァルアリスの働きぶりにそんな娘の姿を思い起こしてしまうのは無理からぬ事。
松木亨一の目に普段以上の力が宿り、ハンバーグに火を通す手つきにもより一層の冴えが生まれていた。
客、店員、店主が三者三様に異なる理由で、ウェイトレスとなったヴァルアリスを受け入れてしまった瞬間であった!
ヴァルアリスは的確にオーダーを取り、厨房へと伝える。
出来上がった料理の皿を客へと運び、食事が終わったテーブルの皿を下げ、清掃を行う。
十万の大軍を指揮しているヴァルアリスにとって、この程度の作業はまさに朝飯前。
否、ヴァルアリスの活躍は平常のウェイトレスの業務に留まらない!
(混雑を生む原因は導線の悪さと見た。狭い店内に座席が多く、客や店員同士がすれ違うことすらままならない。結果、全ての作業に遅延が生じている……)
初めて入った店の問題点を即座に看破するとはなんという卓越した観察眼。
そして
(
ヴァルアリスは厨房前と店の奥、二点の空間を捻じ曲げて強制的に繋いだ。
いわば即席のワープゲート。これにより導線問題は解消されるのだ!
皿を持って店の奥に消えたり現れたりするヴァルアリスの姿を目撃し、店員の三好大樹は再び恐怖した。
(やっぱり妖精さんだ。仕事を手伝う妖精さんは実在したんだ)
「ヴァルアリス。3番テーブルにライスのお代わりを」
「了解です、母上!」
いつの間にかヴァルアリスとお揃いのハウスメイド姿になったニルファナスまでも参戦している!
(妖精さんが増えた!?)
三好大樹はもはや思考を止め、客の列整理とレジ打ちに没頭した。
異常事態による混乱の最中でも、せめて自分の理解できる世界で仕事をこなそうというプロ意識の賜物である。
では、店主・松木亨一はどうか。
(よし恵……!?)
ニルファナスはよし恵ではない。
しかし店主・松木亨一は、かいがいしく働くニルファナスの姿に、今は離れて暮らす妻・よし恵の姿を重ね合わせてしまっていた。
特に背格好が似ていたわけでは無いが、店に立っていた時のよし恵は忙しないランチタイムにも穏やかに微笑み、いつも悠然としていた。
ニルファナスの働きぶりにそんな妻の姿を思い起こしてしまうのは無理からぬ事。
松木亨一の目に普段以上の力が宿り、ハヤシライスを盛り付ける手つきにもより一層の冴えが生まれていた!
こうして、誰も止める者の無いまま導線の改善によって客の列はみるみるうちに減ってゆき、ランチタイム終了10分前にはヴァルアリスとニルファナスの二人も客としてテーブルに着くことが可能となったのである。
「ようやく私たちの番ですね、ヴァルアリス。注文は決まりましたか?」
ヴァルアリスはメニューを開くこともせず、まずはお冷を一口飲み、不敵な笑いを浮かべる。
「まだ決めてはいませんが……あまり期待はできませんね」
「ほう。それは何故です?」
厨房から何度も食事を運んだため、ヴァルアリスはこの店の料理のほとんどを把握することとなった。
どれも美しく、舌の上に広がる幸福を予感させる出来栄えであったが、それでもヴァルアリスがあえて辛い評価を下したのには理由がある。
「まずはこの店舗、立地に問題が有ります。店内は狭すぎ、外に行列を作るにも並ぶためのスペースが十分に確保できていない。もっと広い場所へ移すべきです」
長く美しい指で店の外を示し、続いて両手を広げて店内を見渡す。
「そして、即座に解決できるような導線の欠陥を今まで放置していたとは無能の極み。これでは、提供される料理の質も推して知るべきというものです」
なんという辛辣かつ無茶な指摘か。人類はワープゲートを作成できないのだ。
しかし、ニルファナスは意味ありげな微笑でこの言葉に答えた。
「大層な自信ですね、ヴァルアリス。しかし果たして、この店の一押しメニューを食した後でも同じセリフが言えるでしょうか?」
「む……」
ニルファナスが指さした一品を、ヴァルアリスは食い入るように見つめる。
「この、洋食グリルまつきの名物……ビーフカツレツ定食を!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます