第3話 千代田区神田神保町のチキンカレー(前)
東京都、千代田区は神田神保町。
ここは歴史ある建物が並ぶ古書の街。古本、古雑誌に限らず年代物のポスターなど、好事家には思わぬ掘り出し物が見つかることもある。
通りを闊歩するヴァルアリスの士気は高い。備えは万全、この地で人類との戦いに決着をつけるつもりである。
大通りから一本外れた路地を進むと程無くして、黄色地に赤い文字で描かれた「カレーショップ真春」の看板が目に入った。
人類に最も広く愛好されている食物を調べた結果、ヴァルアリスが辿り着いたのはカレーライスであった。人類という単位でこの結果にたどり着くのはいささか無理があり、意図せぬ調査サンプルの偏りがもたらした結果かもしれない。
ともあれ、さしあたって重要なのは調査範囲内での多数派意見なのだ。
神田神保町はカレーライスの街でもある。狭い間隔にいくつものカレー屋が並び、人気を博している。
なにもそのような激戦区の店を選ぶこともないだろうと思うかもしれないが、それは逃げである。
人類から高く評価されている店のカレーライスを打ち倒してこそ、あの忌まわしきメンチカツに敗北した雪辱を果たす事ができる。ヴァルアリスはそう考えていた。
先日訪れた杉並区阿佐ヶ谷にもカレー屋はあったが、怖かったのでやめておいた。
意を決し、カレーショップ真春のドアを開くと、待ち構えていた店員が愛想の良い笑顔で出迎える。
「いらっしゃいませ」
先日ミートたけざわで聞いた店主の挨拶とは違っている。「らっしゃい」と「いらっしゃいませ」は微妙な差異ではあるが、それを聞き逃す
(これは……方言!)
調べはついている。言語が完全に統一されている魔族と違って、人間の言葉は居住区域によって細かく単語の構成やイントネーションが異なるのだ。すなわち、ここで返すべき言葉は。
「イラッシャイマセ」
たった一度の聞き取りで完璧に発音を模倣し、ヴァルアリスは渾身の挨拶を返した!
初めて見る客を歓迎したところ、なぜかドヤ顔でおうむ返しされ、カレーショップ真春の店員・藤野美沙希は戸惑った。
戸惑ったがしかし、即座に立ち直った。
飲食店には日々様々な客が訪れる。たとえ謎の言動を取る客が現れたとしても、その全てに正面から向き合っていては接客は成り立たない。
美沙希はこの店に勤め始めてまだ二年、しかし連日の豊富な接客経験から
「奥のお席でよろしいですか?」
にこやかに微笑み、美沙希は定型の言葉を口にする。このような言葉は、果たしてヴァルアリスに通じるのだろうか?
問題なし!ヴァルアリスは黙って頷いた。彼女は既に魔法を発動している。
もう少し早くこの魔法を使っていれば先の挨拶に関わる無用な混乱は生まれなかったのだが、ヴァルアリスが気づいていないので仕方がない。
窓際の席に腰掛けると、美沙希はすかさずおしぼりと水の入ったグラスをテーブルへと運ぶ。
「ご注文お決まりの頃、お伺いします」
ソツのない対応。一旦下がろうとする美沙希だが、ヴァルアリスは機を逃さず勝負を挑んだ。
「この店で最高のものを持て」
「は……?」
腕組みした姿勢で言い放つヴァルアリスに、美沙希は戸惑った。戸惑ったがしかし、対処しきれぬ難題ではない。
「ええと……当店一番人気ですと、チキンカレーになりますが、よろしいでしょうか」
「では、それを持て」
あえて相手に最も自信のあるメニューを選ばせ、それを制覇することで完全なる勝利を掴もうというのである。
「無料でご飯を大盛りにできますが」
「普通でいい」
「お飲み物のご注文はございますか」
「要らん」
「あ、すみません失礼しました。当店のカレーは辛さが四段階から選べるのですが……」
ヴァルアリスは苛立った。カレーライス一つを頼むのにいくつも質問を受ける理由が分からなかったからである。
故に、繰り返した。
「この店で最高のものを持て」
「そ……そうしますと、激辛になりますが?」
「くどい! それを持て!」
「か、かしこまりました」
こうして、コミュニケーションに重大な齟齬を生じたまま、美沙希は厨房へオーダーを通した。
「オーダー、チキンワン、激辛です」
厨房に立つのは異様に顔の濃い男。このカレーショップ真春の店主、乃木幸太郎である。
彼は大きく目を見開き、自慢のカレーを提供するべく動く!
インドに行くと、人は変わる。
そこまで言うと少し主語が大きい。正確には、インドに行くと人は変わる事がある。
特にガンジス川が強い。その何もかもを飲み込む雄大な流れを目の当たりにする事で、積み上げた人生観や死生観がひっくり返ってしまい、人が変わったようになる。
場合がある。
カレーショップ真春の店主・乃木幸太郎もそうした変化を経験している一人であった。
二十年勤めた会社が突然倒産し、茫然自失としたままインドへ旅行に行った。そこでガンジスの流れと出会い、何かを見出し、帰国するやいなやカレーショップを開店するに至った。
故に、この店で提供されるカレーは本場インドの実践的スパイス使いで作られているのだ。
テーブル上のラッキョウと福神漬けを眺め、これは今食べても良いものなのかどうかと挙動不審になっているヴァルアリスの下に、そのカレーが運ばれる!
「お待たせしました。チキンカレーです」
(これは……予想以上に香りが強いな)
ぷんぷんと漂ってくる香りは否応なしに食欲を刺激するが、ヴァルアリスは落ち着いて呼吸を整えた。
まずは観察。事前の調べ通り、皿のベースにあるのは米という穀物。水を加えて加熱することで柔らかくなり、小さい粒をまとめて食する。これがライスだ。
その上にかかっている、茶褐色の汁がカレーというものらしい。ごろごろと肉や野菜が入っており、これは汁と共に煮込まれ味が染み込んでいるのだろう。
ヴァルアリスは知らぬ事だが、四段階の辛さで最上位に位置する激辛のカレーは、多量の唐辛子で赤みを帯びていた。
「よし……!」
メンチカツの時と同じ失敗は繰り返さない。スプーンですくい上げたカレーにふう、ふうと息を吹きかけて冷まし、慎重に口へと運ぶ。
「ふんうううッ!?」
ヴァルアリスは思わず口を押さえて椅子から立ち上がった。
(何!? 何だこれは、口の中が……熱ッ! 違う、痛ッ!? 待て待て待て、何がどうなっている!)
舌が焼け付くような感覚に、ヴァルアリスはただただ苦悶した。
(何故だ! そんなに熱いわけがない、ちゃんとフーフーしたのに!)
ヴァルアリスが混乱するのも無理からぬ事であった。
魔族には辛いものを食べる習慣がない。一応人間の世界でいう唐辛子に近い植物はあるのだが、食べると全身の体液が沸騰して爆裂するので誰も食べない。
生まれて初めて味わう「辛い」という味覚を、理解する事が出来ないのである。
「お客様、大丈夫ですか?」
見かねた美沙希が声をかけると、ヴァルアリスは口を押さえたまま激昂した。
(大丈夫なわけがあるか!)
対面・至近距離でしか使えないが、問答無用で対象の魂を十五の断片へ分割し、それぞれ異なる地獄へと叩き落とす魔法である。
藤野美沙希は死んだ!
「あっ」
自分でやっておいてから、ヴァルアリスはまずい事に気がついた。
絶滅させる対象の文化の証を残すまでは一切の破壊・殺傷行為を禁じるという、
着席し、厳かに
「あら……?」
何かとてつもない超常の体験をしたような気もするが、記憶に無い。藤野美沙希は首を傾げながらレジ前の定位置へ戻った。
カウンター近くの客も何事があったのかと気にしている様子だが、まさか店員が数秒死んでいたとは夢にも思うまい。
ヴァルアリスは内心の冷や汗を拭い、溜息をついた。今のはまずかったが、誰も見ていなかったし、元に戻したのだから
それよりも問題なのは、目の前の物体。このカレーライスなる食物、いかにして討ち果たせば良いのか。
スプーンを持つも、先ほどの衝撃を思い出すと手が止まる。そうでなくとも口中にはまだ痺れるような熱さが残っている。
(本当に人類はこんなものを一般的に食しているのか。味覚がおかしいのでは?)
信じられないことだが、現実に、店内にはちらほらとカレーを食べる客が存在しているのである。
人間に出来ることが魔族の頂点たる自分に出来ないなどということが、あって良いだろうか?良くない。
しかしこれでは行くも地獄、戻るも地獄。
どうする、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます