第4話 千代田区神田神保町のチキンカレー(後)

 水滴のついたグラスを傾け、中の水を飲む。ひと時、その冷たさで灼熱の苦しみから救われる。

 だが、しばらくするとまたじわじわと得体の知れぬ感覚が舌の上に蘇り、ヴァルアリスを苛む。


(駄目だ。食べられる気がしない)


 激辛カレーを前にヴァルアリスの手はすっかり止まっていた。

 もはや、これはこれで人間の作り出した兵器として保存しても良いのではないかとヴァルアリスが考え始めたその時であった。


「お嬢さん、ひょっとしてそれ、辛いんじゃない?」


 近くに腰掛けていた老紳士が、気安く声を掛けてきたのである。


「カライ?」

「ここのカレーは結構、本格的だからね。辛いんでしょう」


 成る程、理由は分からないが、どうやらこのカレーは「カライ」という状態らしい。それこそが自分がカレーライスを食べ進めることのできない原因であると、ヴァルアリスは看破した。竜魔神姫トンデモナイゼの洞察力を以ってすれば容易いことである。

 老紳士はニコニコしながらぴんと人差し指を立て、話を続ける。


「お嬢さん、トッピングの生卵を頼みなさい」

「生卵……?」

「左様。生卵が辛いカレーをまろやかにしてくれるのですよ」

(何を偉そうに。惰弱な人間風情が、この私に助言をするつもりか?)


 半ば意地になってカレーを口に運んだが、やはり食べられないのでヴァルアリスは店員・藤野美沙希を呼び止め生卵を注文した。カレーライスの上に投入、混ぜ合わせて一口食し、即座にヴァルアリスはその効果を実感した。


(カライには変わりない。だが、これならまだ戦えるカライだ……!)


 ヴァルアリスの反撃が始まった!

 ルウばかりに気を取られていたが、ごろごろ入った鶏肉を一つスプーンですくい、食してみる。


(柔らかい。この肉はどうしてこれほどまでに柔らかいのだ?)


 それはこの鳥モモ肉が、ヨーグルトを揉み込む一手間がかけられているからだ。魔界生まれ魔界育ちのヴァルアリスが知らないのも無理からぬことであった。

 その鶏肉がほろほろと口の中でほぐれ、旨味がスパイスと合わさって相乗効果を発揮。辛いながらも食欲を増進させていく!


(何だ……? これはカライだが、しかし)


 そして地獄のような辛さの中で、ヴァルアリスは何かに気付き始める。


(間違いない。これはカライだけではない……微かに甘みがある!)


 そう。初めて味わう辛さと必死に戦い続けるうちに、ヴァルアリスはこのカレーに潜んだ真実を見出したのだ!




 人生は辛い。

 だが、ただ辛いだけではない。日々はスパイスのような刺激に満ち、同時に、辛さを乗り越えた先には心安らぐ甘さがあって欲しい。

 カレーショップ真春の店主・乃木幸太郎は、自らが作るカレーによってその事を表現したいと考えていた。

 このカレーのベースは、飴色になるまで炒められたたっぷりの玉ねぎだ。その甘みはガンジスの流れのように全てを優しく包み込む。

 それはクローブ、カルダモン、クミン、ターメリック、コリアンダー、マスタードシードであり、カイエンペッパー。刻んだ生姜とニンニク、忘れてはいけないガラムマサラ。

 全てのスパイスは優しいオニオンの中で一体となり、かつ互いの魅力を損なうことなく個性を発揮する。

 だからこそこのカレー激戦区神田神保町で、カレーショップ真春は十年の月日を生き延び続けて来たのである!




 食べるに従い、額から汗が噴き出し頬を伝う。それでもなお、ヴァルアリスはリズミカルにスプーンを動かし、カレーを口に運んだ。


 辛い。だがしかし、美味い。

 このカレーの奥底には優しい甘みが潜んでおり、ライスもまた、噛みしめることで甘さを感じられる。


(常に! カレーの汁とライスを一緒に食せばいいのだ! そうする事でカライが押さえられる!)


 ヴァルアリスは理解した。カレーライスとは命がけの格闘技なのだ。

 ルウとライスの配分を間違えれば死に至る、その駆け引きを楽しみながら食べるものなのだろう。

 人間が夢中になるのも頷ける。

 そして曲がりなりにも戦闘行為であれば、魔族の中で竜魔神姫トンデモナイゼに並ぶものは無い!


(このペース、ライスが僅かに足りないか! 何か他に手は……)


 目に留まったのは卓上の福神漬けとラッキョウ。ヴァルアリスは直感に従いその容器の蓋を開け、二種の漬け物を皿に乗せた。

 すくって食べれば、その爽やかな甘酸っぱさはカレーによく合い、ライスの不足を補って食べきることを可能にする!

 そう、最後のピースは最初から目の前にあったのだ!

 あと、単品で食べるのも自由だが普通はあまり単品で食べるものではないということも、何となくわかった!


 最後の一口を食べ終えスプーンを皿に置く時、汗だくのヴァルアリスは不思議な達成感と爽快感を得ていた。

 紙一重ではあったが、正気を保ったまま食べきった。それも、人類自ら選んだ最高のカレーライス。これ以上の勝利は無かろう。


 隣の老紳士はニコニコとその様子を眺めている。ああ、なんと皮肉なことか!彼の助言が無ければヴァルアリスがカレーを完食することはかなわなかったであろう。

 他ならぬ人類が、人類を滅ぼす手助けをしてしまったというのか!


 カレーを食べることに夢中になって気がつかなかったが、いつのまにか老紳士の前にも注文したカレーライスが置かれていた。

 何気なくその皿を一瞥したヴァルアリスは、飛び上がって壁にへばり付いた。


「メッ、メメメン、メンチカツ!」

「やあ、これはメンチカツではなくてコロッケですよ」


 コロッケとは何だ。

 その外見からすると、メンチカツの亜種と見て間違いないだろう。それを、カレーライスに乗せて一緒に食べようというのか?そんなものは……


(そんなもの……!)


 慌てて卓上のメニューを開いたヴァルアリスは、信じられないものを見た。


チキンカレー 680円

コロッケカレー 780円

ハンバーグカレー 880円

ロースカツカレー 880円


「あ……あ……?」


 愕然とし、へなへなと椅子に座り込む。

 自分が食べたのはチキンカレー、値段も一番安くメニューの先頭に載っている。


(そんな、馬鹿な。確かに自分は、この店で最高のものを持てと命じたはず……)


 そこまで考えて、ヴァルアリスは自分の致命的なミスに気がついた。

 何故、店員が素直に自分の命に従うと思っていたのか?油断も甚だしい。

 これではまるで、前陣を切り崩し意気揚々と進軍して罠にかかった、あの愚かな蒼血天使の軍勢と何も変わらないではないか!


 実際には、店員・藤野美沙希はチキンカレーが一番人気なので提供しただけである。その美沙希はといえば、にこやかな笑顔でヴァルアリスの席へとやって来ていた。


「お客様、何か追加のご注文でしょうか?」


 注文した品を食べ終わった客がメニューを開いていれば、追加のオーダーを取りに行く。店員として至極まっとうな行動だ。

 だがしかし、命からがらチキンカレーを倒した満身創痍のヴァルアリスに対し、その言葉は……!


「い……挑めるものなら挑んでみよ、という事か……」

「はい?」


 ヴァルアリスは、力なくチキンカレーとトッピング生卵の代金をテーブルの上に置いた。


「あ、お勘定、ちょうどですね。少々お待ちください」


 レジに向かう藤野美沙希の背後で、破断時空転移陣ドッカニデルゲートの眩い光と共にヴァルアリスの姿は消えて行く。

 またしても、竜魔神姫トンデモナイゼによる滅界儀式ホロボシタルは失敗に終わったのである。




 さて、疑問に思った事だろう。

 本格インドカレーを提供するこの店で、何故コロッケカレーやハンバーグカレーなど、いかにも日本的なメニューが存在しているのか。

 事実、店の一番人気はプレーンなチキンカレーである。ならば何故、それらのメニューは消えずに残っているのか。


 それは店主・乃木幸太郎の幼少期の記憶に関連していた。

 幼い頃、乃木の母は二日目のカレーを食べる時、いつもスーパーの半額惣菜を乗せてくれた。

 ポテトコロッケ、エビフライ、ハンバーグ。決して上等なものではなかったが、それは乃木にとって幸せな記憶の象徴だった。

 どれほどインドにかぶれても捨てきれぬ故郷と家族への愛情が、この店のメニューにコロッケカレーを加えたのである。


 ガンジスの流れと、母の愛。

 いずれを欠いても竜魔神姫トンデモナイゼを討つには至らなかったであろう。二つの刃が一つになって初めて、魔界の至宝を貫く剣となりえたのだ。


 カレーショップ真春の店内では、老紳士が幸せそうにほくほくのじゃがいもで作られたコロッケをくずし、ルウと一緒に口に運んでいた。

 それはどこかノスタルジックなこの町に相応しく、守られた人類の平和を象徴するような光景であった。

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