第4話 静岡県静岡市の桜エビかき揚げ定食(後)
(これが桜エビか。なんと小さく、見るからに弱々しい生物よ。こんなものに負けるはずが……!?)
摘まみ上げた生の桜エビを口にしたヴァルアリスの額に、汗が浮かんだ。
噛みしめるとぷつんと弾け、とろりと柔らかな甘みが広がる。
新鮮な桜エビは、小さいながらも一匹でしっかりとエビの旨みを持っているのだ。それを丸ごといただく……広く流通している、干した桜エビでは実現できない味わい!
(そのまま食べてこの美味しさとは……! いや、これは逆にかき揚げにしたのは余計な手間という事もあり得るぞ)
鮮度が命の海産物、しかもこのような繊細な甘みをもつ食材にわざわざ衣をつけて揚げる意味はいかほどか。
軽く塩を振り、口を開けて、大きなかき揚げに齧り付く。
「な、何故もっと美味しいのだ!?」
ぱりぱり、さくさくとした衣の中から現れる柔らかい桜エビという食感の妙味!
(これはいけない! いけないぞ!)
がつがつと食べ進めそうになり、思わずほかほかのご飯としゃっきりした歯ごたえのお新香に救いを求める。
しかし、それは所詮別種の美味。一時矛先を変えることは出来ても、食欲の歯止めとはならない。
「うっ、これは!?」
更にお吸い物の中にもアオサと桜エビが潜んでいる!
香り豊かな海の幸がタッグを組み、ヴァルアリスの精神を揺さぶる。
(成る程、鉄壁の布陣というわけか。だがしかし……)
いかに美味といえど、ここで無様な敗北を晒すわけにはいかない。
何故ならば、今ヴァルアリスの前には母が居るのだ。
今までとて、決して負けていい戦いではなかったが……この時だけは、絶対に負けられない。
(
暴れ狂う、狂獣のごとき自らの食欲を抑え込む!
ヴァルアリスは血涙を流さんばかりの勢いで歯を食いしばり、ガクガクと手を震わせながら箸を置いた。
あまりの苦しみに、
由比の空がにわかに掻き曇り、オーロラのごとき魔力光の渦が次々と浮かびあがる。間もなくそこから破壊の光槍が地上に降り注ぎ、跡形もなく全てを焼き尽くすだろう。
「ど、どうです母上! あとはこの食事を封印保存すれば……
勝ち誇るヴァルアリス。
母はその言葉に答えず、ただふわりと微笑んだ。
時が止まったかのような静寂が辺りを包み……それはニルファナスが注文した三品、すなわち桜エビかき揚げ定食、マグロ漬け丼、釜揚げシラス丼の到着によって破られた。
「……いただきます」
「母上……?」
ニルファナスは割り箸を綺麗に二分し、ヴァルアリスと同様に生の桜エビを食す。
それは実に優雅な所作であった。
「うん……身が締まり、甘みがあって美味しいですね。桜エビは不漁が続き価格が高騰しているとか。今日こうして食すことができるのは僥倖ですよ。これを残すとは実に勿体ない」
「し、しかし。人界を焼却し、私が魔界の王となる為には残さねば……」
ヴァルアリスの歯切れの悪い返答には構いもせず、ニルファナスはかき揚げに塩を振って齧り、サクッと良い音をさせる。
「素晴らしい。火の通り具合が絶妙です。薄い衣でもエビの旨みを逃がさず、しっかり閉じ込めている」
「母上、一体何を……はっ!」
ヴァルアリスの顔から血の気が引いた。
これは食レポ実況である!
これまでヴァルアリスは五感のうち四つを戦いの要素と捉えていた。
すなわち、いかにも美味しそうな見た目は視覚、食欲をそそる香りは嗅覚。食事をするうえで当然避けて通れぬのは味覚。食感により刺激されるのが触覚だ。
ここへ来て聴覚への攻撃とは予想外!
「母上、もうお止めください!」
「知っていますか、ヴァルアリス。天麩羅は揚げ物……しかし、その本質は蒸し料理なのですよ」
「そ、その心は!?」
耳を塞ぐべきであっても思わず聞き入ってしまう絶妙な引き!
「高温の油と衣の中で、食材は自身が持つ水分によって蒸しあげられるのです。そうして味も香りも逃さぬようにした上で熱を加え、旨みを活性化させる……」
「そ……それが、衣を破った瞬間に爆発的にあふれ出ると!?」
「いかにもその通りです。しかし複数の桜エビをまとめて揚げるかき揚げでこれを実現するのは至難の業。職人の腕の見せ所、というわけですね」
このニルファナスの言葉に、厨房では口角を上げた店主……持田吉郎が満足げに頷いていた。
いかにも、桜エビをかき揚げにして、生のそれと遜色ないほどに客を唸らせるのは容易なことではない。
吉郎は客に向かってあれこれとやかましく理論を述べるつもりはないが、伝わる者には十全に伝わっているという事を再確認し、思わず笑みがこぼれたのである。
一方、ヴァルアリスの口内にはどっと生唾があふれ出ていた。
先ほど食べたかき揚げの豊かな味わいは、何も言われずとも十分に衝撃的なものであった。
しかし具体的な言葉で情報を摂取することで、本能のみならず理性のレベルで美味しさを理解してしまう。
その証拠に、ヴァルアリスは一度置いたはずの箸を再び手にしてしまっている!
(何か……何かないのか! この窮地を切り抜ける、逆転の一手が!)
不意に、ヴァルアリスは卓上のグラスに注がれた鮮やかなグリーンの飲料に目を止めた。
(これは……? 水ではない。こんなものを注文しただろうか?)
対面のニルファナスを含め、どの客の前にも同じものが並んでいる。
どうやらこの店では水の代わりにこの飲料を提供しているようだ。
一瞬訝しんだものの、ヴァルアリスはなんとか箸を置いてグラスを手に取ることに成功した。
冷たい飲料を口にすることでいったん落ち着き、不動の精神を取り戻すべきと判断したのだ。
だがしかし、この一手は致命的な過ち!
「はああああ!?」
ヴァルアリスの身体を、涼風が吹き抜けるような感覚。
山の斜面に沿って鮮やかな緑の木々が立ち並んでいる……そんな見たこともない風景を幻視してしまうほどの清涼感!
「馬鹿な……この清々しい香りは何だ! こんな良質な飲み物をしれっと提供するはずがない、あり得ない!」
それがあり得るのだ!
静岡県といえば山間部に大規模な茶園をいくつも有し、お茶の生産量は日本一。
恵まれた気象条件、歴史の中で磨かれた加工技術によって、高品質なお茶を全国に届けるお茶どころなのだ。
そして静岡県はお茶の消費量も日本一。香り豊かで滋味のあるお茶が、この地では日常的な飲み物に過ぎない!
この爽やかな冷茶によって食欲を刺激され、ヴァルアリスの忍耐力は即座に決壊。
ざくりと音を立ててかき揚げに齧り付いた!
「ううっ、やはり美味しい!」
さっぱり、からりとした衣の中から、ぷりっと弾ける桜エビの甘みが飛び出す。
ふりかけた塩と合わさった時に奏でる海のハーモニーはまさに珠玉。
しかも、齧っても齧ってもまた新たな桜エビが現れるのだ。
「ふふふ……このマグロ漬け丼も食べてみますか? ヴァルアリス。肉厚で力強い赤身がたまりませんよ」
「は、母上! 何を……おおおお!」
どんぶりの上に贅沢に盛られているのは、とろけるような脂と重厚な赤身のボリュームを両立する隙の無い漬けマグロ。
ほどよく漬け汁が染みてコクのあるその味わいは無上の幸福を約束する!
「釜揚げシラス丼もどうですか?」
「母上! おやめください! ああああ!」
ふっくら、ふわふわと柔らかい釜揚げシラスの塩気がご飯とマッチし、食が進む!
もはやどちらへ進んでも逃れ得ぬ美食の包囲網。
卓上に並んだ彩り豊かな食事の数々、その全てがヴァルアリスとニルファナスの胃の中へと納まるのに、長い時間はかからなかった……!
「食べてしまった……」
「実に美味しかったですね。ご馳走様でした」
「ご馳走……様でした……」
茫然と、放心状態で手を合わせるヴァルアリス。
敗因は明白。ヴァルアリスは富士の高みばかりに気を取られ、駿河湾の奥深さを見誤ったのだ。
そしてノーマークだったお茶という伏兵、加えて母ニルファナスの食レポ実況。
これほどまでに想定外の材料が揃っては、さすがのヴァルアリスも完敗はやむなしである。
やおらニルファナスは立ち上がり、ヴァルアリスの頼んだ定食の分も含めて会計を済ませる。いまだ敗北のダメージから立ち上がることのできないヴァルアリスは、そのまま店を出ていこうとする母を呼び止めた。
「は、母上! どこへ行くのです!」
「ヴァルアリス。あなたはまだ人界の限られた範囲しか知らないのでしょう。具体的には、関東と東北のごく一部」
ヴァルアリスは思わず凍りついた。
(い、言われてみればその通り。この私に驕りがあったというのか……!)
しかし、振り向き、そっと微笑んだニルファナスの表情には慈愛が満ちている。
「西へ向かうのです、ヴァルアリス。私はそこで待っていましょう」
「母上……!」
何故、母は食レポ実況によりヴァルアリスの勝利を阻止したのか。
あの異常に旺盛な食欲は何を示しているのか。
そしてまた、次なる戦いの舞台を示唆したのは何故か。
ようやく母に再会したというのに、かえって謎は深まるばかりだ。
(構わん。私は
決意と共に、ヴァルアリスは食後のお茶をおかわりするのであった……!
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