第21話 世田谷区三軒茶屋の石窯ベーカリー(前)
東京都世田谷区、三軒茶屋。いかにも都会的で洗練されたカフェやバーが並ぶ一方、昔ながらの古き良き店舗、レトロな景観も残す街。
交通の便が良く住宅地としても人気があるこの地に、石窯ベーカリー「ブーランジェリー・ランタン」はあった。
炉の周りを煉瓦で囲んだ本格的な石窯を使用して焼き上げるパンは、近隣住民のみならず遠方にもファンが多く、休日の店内はパンを求める客で賑わっている。
ヴァルアリスはといえば、手にしたトングをカチカチと控えめに打ち鳴らし、トレイを手に店内を闊歩していた。
棚を埋め尽くすのは実に蠱惑的なパンのラインナップ。本日のヴァルアリスは、この中から人類の文化の結晶と呼ぶにふさわしいパン群を選び出し、賞味しようという心づもりである。
ふと、交互に前に出していた足を止める。
目前には「当店一番人気」の手書きポップも輝かしい、ツヤツヤと表面を光らせるあんパンの群があった。
(これは……うむ。有力候補)
一番人気の品ともなれば、その美味さに間違いはあるまい。しかし、焦りは禁物。最後に物を言うのはあくまで己の判断だ。
世間の評価に諾々と迎合するつもりはなく、また、一度トレイに乗せたパンをもう一度棚へ戻すような真似はヴァルアリスのプライドが許さない。後戻り無し、一回きりの完璧なセレクトを決めるつもりであった。
次に目を引いたのは、スパイシーな香りを漂わせるカレーパンであった。
パン粉のついた表面はきれいなきつね色に揚がり、口に入れた時の幸福な食感を約束しているかのよう。
(なるほど……有力候補だ。しかし!)
仮にこのカレーパンをチョイスした場合、あんパンは候補から外さねばならないだろう。辛いカレーパンから甘いあんパンという流れはやや味覚の振れ幅が激しく、ヴァルアリスの食的な美意識が許さない組み合わせなのだ。
次に目に留まったのは、ダイスチーズを抱いた円形のフランスパンである。コクのあるチーズが、ぱりっと香ばしく焼けた歯ごたえのあるフランスパン生地とマッチすることは想像に難くない。
(これも有力候補だな……)
ぷりっとした大きなソーセージがはみ出すホットドッグ、フィッシュフライのオープンサンド、ガーリックバターの染み込んだバゲット、三つ編み状に成形されたベーコンエピも魅力的だ。
一方で、つややかなチョコレートクリームがたっぷり詰まったチョココロネや、皮がカリカリに焼けて砂糖の粒がついたメロンパン、バターたっぷりのデニッシュも捨てがたい。しかもデニッシュは、アップルクリームチーズとブルーベリークリームチーズの二種類。
スイートポテトのペーストが乗ったパンも美味そうだし、その隣にはくるみ入りの蒸しパンまである。
(待てっ、これは……まずい!)
ヴァリアリスの背を冷や汗が伝った。気がつけば、有力候補の数が既に十を超えている。
ふんわりとしていかにも美味そうなコッペパンは中に挟む具材のバリエーションも豊富。いちごホイップにあんバター、ピーナッツクリームなどはいかにも食欲をそそる。ポテトサラダ、たまご、ナポリタンなどのおかず系も捨てがたい。
レジ前には揚げたてパンの案内があり、注文してからパンを揚げるという徹底ぶりだ。味付けもプレーン、シュガー、きな粉が選べるという!
(これでは……決められん!)
これこそベーカリーに待ち受ける最大の罠! なまじ無数の選択肢が存在するが故に、最良の結果を選び取るのは困難を極めるのだ。
一体どうすれば良いのか?
今やヴァルアリスはパンの檻に囚われた哀れな小鳥。このままでは、ブーランジェリー・ランタンの店内でトングとトレイを持ってうろつきながら一生を終えることになる!
だがしかしこの時、無間地獄に囚われたヴァルアリスの姿を食い入るように見つめる者が居た。コックシャツに赤いスカーフを巻いたこの男の名は巻町ショウ、何を隠そうこのブーランジェリー・ランタンの店長である。
「ショウ、どうしたの?」
「何かあったか」
険しい表情のショウに呼びかけたのは、コックシャツに黄色いスカーフを巻いた利発そうな女性。そして、コックシャツに青いスカーフを巻いた、どこか飄々とした男。
ブーランジェリー・ランタンの店員にして巻町ショウの幼馴染である、湯河原ミサと巽ケントである。
「ミサ、ケント。フェニックス・フォーメーションだ」
ショウはアルファベットのFを象ったハンドサインと共に宣言し、それを受けた二人の表情が引き締まる。
「フェニックス・フォーメーション!」
「フェニックス・フォーメーションに変更だ」
ミサとケントの呼びかけにより、調理場の空気が張りつめ、作業の導線が引き直され、慌ただしく指示が飛び交い始めた。
説明しよう。フェニックス・フォーメーションとは何か?
それはこのブーランジェリー・ランタンにおいて、「総員、仕掛中の調理パンの作成を最優先に変更」というオーダーを意味する。ただし、そのために菓子パンやプレーンな食事パンの提供が大幅に遅れるようなことがあってはならない。
このような負担の大きいオーダーは滅多な事では発動しない。にもかかわらず、店長・巻町ショウと二人のチーフが呼びかければ、全員が一個の生命のように滞りなく目的に向かって動き始めるのである。
それはチームの信頼、そして繰り返してきた地道な訓練によるものであった。
変更されたシフトからは、急ピッチで成果が生み出される!
「ただいま、カツサンド出来立てです。是非どうぞ!」
店員・湯河原ミサが店中に届くように声を張り上げる。
ヴァルアリスは弾かれたようにその声に振り返り、猛然とトングの一撃を繰り出した。無論、掴みとったのはカツサンドである。
(活路!)
膨大な選択肢の中で自我を失いかけていたヴァルアリス、しかしこの出来立てカツサンドの登場により
そして1つめのパンが決まる事で流れが生まれ、思考の袋小路を脱したのだ。
先鋒、カツサンド。
中堅、アップルクリームチーズデニッシュ。
大将、あんパン。
これぞヴァルアリス・セレクト! まごう事なき最強のメンバーがここに揃ったのである。
レジ横の冷蔵庫で冷えていた牛乳も合わせて購入し、ヴァルアリスは意気揚々と店内のイートイン・コーナーへ向かった!
「急にフェニックス・フォーメーションなんか使うもんだから驚いたぜ。さっきの、あの子のためか?」
パンの製造が一段落し、休憩に入った巽ケントが呆れたような声を上げる。作業の片づけを続けていたショウは、はにかんだ笑いでそれを受けた。
あの子というのは、無論トングとトレイを持って店内を何周もしていたヴァルアリスのことである。
「ああ、助かったよ。お蔭でなんとかなったみたいだ」
「まったく。お客さん一人一人にそこまで全力でやってたら、身がもたないよ?」
同じく片付け作業中のミサも、ショウの無茶を気遣う。
「……いや、必要だったんだ。確かに俺たちにとっては、あの子はたくさん居るお客さんの中の一人かもしれない。でもあの子がこの店で嫌な思いをしたら、来てくれるのは最初で最後になってしまうかもしれない。そう思ったら、手を抜けないだろう?」
言い放つ店長を前に、二人の幼馴染は呆れたように、しかしどこかまんざらでもないように苦笑した。
「フン。お前ってやつは……」
「本当、いくつになっても暑苦しいんだから」
そう。これは、三人が幼少期から幾度となく経験してきた戦いの一つに過ぎないのだ。三人は、幼稚園の頃に共通して将来の夢がパン屋だったことから親しくなった。
しかし、子供の頃の夢をずっと抱き続ける事、実現させることは容易ではない。
それぞれにフランスへの留学、厳格な親の命による和食店での下積み修業、三年にもわたる自転車での自分探しの旅、そうした紆余曲折を経て再び集い、一つの店を作り上げたのだ。それは奇跡的な事であった。
だがしかし彼らとて、自分たちの作り上げたパンを食したヴァルアリスが満腹になり、それによって人類が滅びようとしているとは夢にも思わない!
いったいどうなってしまうのか……!
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