第12話 誤算
巌谷の湯旅館。
山梨県南巨摩郡の山中にあり、武田信玄の隠し湯とも言われる硫黄泉が売りの、老舗の旅館である。
温泉の効能には個人差があり万人に保障されるものではないが、関節痛、冷え性、高血圧や美肌に効果があると言われている。
何より、乳白色の湯に肩まで浸かり、見上げればそこには満点の星空。
そよぐ風とかすかに聞こえる虫の鳴き声を聞きながら過ごすその時間は、まさに極上のリラクゼーションなのだ。
その旅館のロビーに、ヴァルアリスの姿はあった。
(好き好んで熱い湯に浸かるとは、人類にはおかしな習慣があるものだと思ったが。なかなか良いものだったなあ……)
一風呂浴びて浴衣姿となったヴァルアリスは、つい先ほど味わった温泉の心地よさを反芻している。
魔族には入浴の文化が無い。身体の汚れを落とすためシャワーを浴びる程度のことはするが、浴槽に浸かるという習慣がないのだ。
当然温泉施設など未知の世界であった。
そして今、ヴァルアリスは湯上りに瓶の牛乳を一本買い求めていた。人間の文献を調査する過程で、これが無上の快楽の一つであるとの記述に惹かれていたのだ。
腰に手を当て、牛乳をぐいと呷って感嘆の声を上げる。
「っくああー……!」
瓶を傾け、残りの牛乳を一気に流し込む。
牧場の搾りたてミルクとはいかないものの、火照った身体に染み渡るように美味しい。
(なるほど。これは良い文化だ……熱い湯と冷たい飲み物の温度差が重要なのだな)
念願叶ってほくほくしながら部屋に戻れば、そこには既に布団が敷かれている。
ヴァルアリスは迷わず布団にダイビングし、それから大の字に寝転がった。
この布団、魔界でヴァルアリスがいつも利用している最高級のベッドに比べれば薄く固い粗末な品であるが、それが何だというのか。
今のヴァルアリスは真剣に、積極的に弛緩する姿勢なのだ。故に、置かれた環境、施設、設備に不平不満を言うよりも、全力で楽しみのびのびと過ごすのである。
これほどまでに徹底した心の切り替えができるのは、魔界広しといえど
いまやヴァルアリスはリラックスの化身!
何人たりともそのくつろぎを止めることはできないのだ。
「はっ……?」
布団にくるまってぬくぬくしていたヴァルアリスは、壁にかかっている時計を何気なく見やって目を丸くした。
軽く横になるつもりが、気がつけば二時間以上が経過している。恐るべきはヴァルアリスの全力弛緩!
胃の中はすっかり空っぽの状態だ。
急ぎ部屋を出て、目に付いた旅館の仲居を呼び止める。
「そこの者よ。夕食はまだだろうか?」
呼び止められた仲居は愛想の良い接客態度こそ崩さないものの、やや怪訝そうな顔をした。
「あら? 鳳凰の間のお客様でいらっしゃいますよね」
「その通りだが……?」
「確か、お夕食無しのプランと伺っておりますが」
ヴァルアリスは慌てて部屋に戻り、念のためプリントアウトしておいた予約画面のコピーを取り出す。
「……しまった!」
何というケアレスミス。宿泊の予約時に夕食オプションのチェックを付け忘れていたのである!
再びロビーへ引き返し、先ほどの仲居に呼びかける。
「い、今から食事付きのプランに変更は可能か?」
「申し訳ありません。食材の用意が限られておりますので、変更は受け付けておりませんでして……」
いかにもすまなそうに頭を下げる仲居。
さほど大きな旅館でもなく、山の上という立地もあって余分な食材の用意まではしていないのだ。
「ま、まあ良い。それなら、外で食べてくるとしよう」
空元気を出すヴァルアリスに対し、仲居は言いにくそうに告げる。
「ちょっと……難しいと思いますが……」
「な、何故だ?」
「この辺りもう、店が閉まりますので」
人類には目視できない速度で浴衣から外出着に着替えたヴァルアリスは、
その日、山梨県南巨摩郡の山中では奇怪な現象がいくつも目撃された。
特に多かったのは、ヘッドライトが照らす路面の上を、恐ろしい速さで移動していく影があったという複数の証言である。
また、山中のキャンプ場でバーベキューを囲んでいたとある家族は、山を降りてきた影が立ち上がり、少女の姿となってこちらを見つめていたと証言している。
この珍事は現代の新たな怪異として長く語り継がれることになるのだが、当のヴァルアリスはそれどころではない。
「店は!? 開いている店は無いのかっ!」
ヴァルアリスは叫ぶ。
しかし、地方の商店、飲食店の閉店が軒並み早い事を誰が責められよう。
何しろ人口が違うのだ。一定以上の集客が見込めなければ、遅くまで店を開け続けることにメリットが無い。
都会基準で物事を考えると、このような落とし穴に嵌るのだ!
今からどこか店が開いていそうな都会に転移してもいいし、なんなら魔界に帰って食事を摂ることさえ可能である。
しかし、せっかく地方を訪れておいて地元のものを何も食べずに帰るなど、あまりに侘しい……その一念が
ヴァルアリスがほぼ山を降りきり、平地に差し掛かった頃であった。
小さな看板が、家の中から漏れるオレンジ色の明かりに照らされているのが見えた。
看板には「郷土料理 よしむら」と書いてある!
しかし今、無情にも一人の老婆がその店の暖簾に手をかけ下ろそうとしているではないか!
「ああーっ!」
ほとんど頭から滑り込む勢いで飛び込んできたヴァルアリスの姿を見て、老婆は驚き目を丸くした。
「おお……どうしたんけ?」
「し、閉めるのか……この店も、閉まってしまうのか……!」
涙ぐみ、半ば諦めのこもった声を上げるヴァルアリスを眺め、老婆は首を傾げる。
「お腹空いてるのかい。それなら、入って行けし」
「い、いいのか!」
なんという行幸。いや、これは単に幸運というよりもこの老婆の人柄というものであろう。
夜も更け、今まさに閉めようとした店に客を招き入れてくれるとは、金銭目当てではなかなかできることではない。
捨てる神あれば拾う神あり、窮地のヴァルアリスは思いがけず人情に救われたのであった。
しかし、ヴァルアリスが店の中へ入ると途端に老婆は外の様子を伺い、怪しく目を光らせた。
そしてすぐさま暖簾を下ろし、あたかも閉店したかのように装う。
何故、そんなにも外を警戒するのだろうか?
「ヒッヒッヒ……」
口の端を歪め小声で笑う老婆は、いつしか只者ではない気配を漂わせ始めていた……!
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