第13話 山梨県南巨摩郡のかぼちゃほうとう(前)
郷土料理よしむらの店内は、年季の入った純和風の作りであった。
畳敷きの小上がりでは眼鏡をかけた老人がのんびりとお茶を飲んでいる。
「あれえ。お客さんかい」
老人が意外そうな声を出すと、ヴァルアリスを招き入れた老婆は笑いながら厨房へ入っていく。
「今日、最後のお客さんよ。うんとお腹が減ってるみたいだから」
「そうかい、そうかい。まあゆっくりしていけし」
郷土料理よしむらは、この老夫婦が切り盛りしている小さな店である。妻の吉村多江が調理担当、夫の吉村寛二郎は会計や皿洗い、掃除などを担当しているのであった。
同席するのも妙だが、あからさまに距離を取るのも気まずい。ヴァルアリスは軽く会釈をし、寛二郎から少し離れた座布団の上に正座した。
「何か、苦手な物あるかい?」
「特には。……辛過ぎるものでなければ」
吉村多江が確認したのはその一点のみで、注文も取らずに調理の作業に入ってしまった。
もっとも本来の営業時間を過ぎていることを思えば、何でも自由に注文するというわけにはいかないのだろう。
手持ち無沙汰になったヴァルアリスが壁際に飾られている厳つい顔をした達磨などに気を取られていると、いつの間にやら寛二郎が冷たいお茶をお盆に乗せて運んできている。
「お客さん、どこから来なさったんです?」
「ああ。魔界……」
うっかり自分の出身地をそのまま告げそうになり、ヴァルアリスは動転した。
「ま、マカオから来た」
「マカオ! はぁ、それはまた遠くから」
咄嗟の機転で難を逃れたヴァルアリスは胸をなで下ろす間もなく呼吸を整え、精神集中を始めていた。
(まだ精神に弛緩が残っていたようだ。今、全て断ち切る……!)
ヴァルアリスは決して温泉を満喫するために弛緩していたわけではない。
くつろぎの時はもはや終わり、これより死力を尽くす戦いが始まるのである。
必勝の気概がヴァルアリスの全身に満ち、青白い炎となって立ち上る勢いであった。
「ううーん」
しかし、そんなヴァルアリスの視界の端で寛二郎がしきりに首をひねったり腕を回したりしている。
決戦を前に近くでううむ、ふうむ、と声を上げられるとどうも気が散って仕方がなく、堪りかねてヴァルアリスは声をかけた。
「どこか痛むのか?」
「いやあ、この年になると悪くねえ所の方が少ねえですな」
苦笑いする寛二郎とは対照的に、ヴァルアリスは目を細め冷徹な眼差しで黙考する。
(……人類の身体構造について把握しておくのもまた、人界攻略の一環と言えるか)
突如ヴァルアリスは寛二郎の背後に回り、指先で背中の一点を突いた!
「ぐぎゃはああ!」
ほとんど断末魔に近い悲鳴を上げた後、吉村寛二郎は晴れやかな笑顔で両手を勢いよく回した。
「おう、これは凄い! こんなに肩が軽くなったのは何年ぶりか……!」
「こんなものは序の口だ。行くぞ」
「おぐはあああ! ごっはあああ! ぐげええええ!」
背を突かれる度に悲鳴を上げる寛二郎。
ヴァルアリスが繰り出しているのは、魔界式ツボ指圧を人類用にアレンジしたものだ。
打突の刺激により、寛二郎の血流の滞りや筋肉の緊張が劇的に改善されているのだ!
一方その頃、厨房では。
「シャアアーッ!」
吉村多江の振るう出刃庖丁が、硬いカボチャの皮を易々と断っていた!
多江はそのまま老齢とは思えない俊敏な動きで大根、人参、蒟蒻、椎茸、長葱……様々な野菜を一口大に切り刻んでいく。
何故そこまで調理を急ぐのか?
それは、吉村多江が作ろうとしている料理の調理方法に理由があった。
彼女が今作っている料理には、十分な煮込み時間を必要とする。
空腹に苦しむ客には一刻も早く料理を提供したい……が、味の決め手となる煮込み時間を短縮することはできない。
この窮地において吉村多江の発想は至極単純であった。
すなわち、煮込み以外の時間を全て短縮すれば良いという発想!
残像すら生じる素早さで豚肉の塊を削ぎ落とし、煮え立つ鍋の中へ材料を投入していく!
「キエエーッ!」
「あぎゃわあああ!」
「ヒャアアーッ!」
「ぐへああああ!」
決して広くはない郷土料理よしむらの店内に、老夫婦の叫びが交互に響き渡る。
この日、店の外を通りすがる者が居なかったのは幸いであった。
やがて調理の過程も大詰めに差し掛かり、吉村多江は額の汗を拭いつつ声を張り上げた。
「待っててな。もうすぐできるから」
「フッ、ゆっくりでいいぞ。おばあちゃん」
寛二郎の肩を揉みながら思わず自然にそう答え、ヴァルアリスは戦慄した。
(……何だ今の台詞は)
おばあちゃん、と言ったのである。
魔界最強の存在、絶対無敵の
(馬鹿な。あり得ない)
ヴァルアリスは魔界の次期統率者となるべき存在。
こうして度々寛二郎の肩を揉み、多江の仕事を手伝い、この山梨県南巨摩郡の地ですくすくと成長し……
(ち、違う!)
それは捏造された記憶だ!
この店のあまりの素朴さ、気のおけない接客、実家のような居心地の良さがもたらした幻覚である。
(惑わされるな、この雰囲気に! 私は
必死に自我を保ち続けるヴァルアリスの前に、吉村多江がぐつぐつと煮えたぎる鉄鍋を運んでくる。
「はい、お待たせぇ!」
身を乗り出して鍋の中身を覗き込んだヴァルアリスの目には、たっぷりの野菜と共に煮込まれた幅広の麺が映った。
「これは……うどん……!?」
「いや、うどんじゃねえよぉ」
吉村夫妻がニヤリと微笑む。
それは山梨県……古くは甲州と呼ばれた地域の、名物料理。
かぼちゃ入りのほうとうであった!
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