第2話 御来光

 富士山。

 標高3776m、霊峰としても名高いこの山は、静岡県と山梨県を跨ぐように聳え立つ日本最高峰の活火山である。

 この山が静岡県のものなのか、山梨県のものなのかという疑問は激しい論争を巻き起こすため、部外者がみだりに触れるべきではない禁忌タブーだ。


 そして今、この富士山の登頂を目指す一人の若き登山者が居た。

 ヘッドライトで足元を照らしながらの夜間歩行である。


 古橋弘樹……32歳。

 休日に趣味の登山に興じているというのに、彼の表情は晴れやかとは言い難い。

 頭痛に顔をしかめ、全身を襲う倦怠感に抗っているからだ。

 これは典型的な高山病の症状であり、彼は一刻も早く登山道を引き返すべきであった。

 富士の八合目付近といえばただでさえ険しい地点、万全の体調でないものが足を踏み入れるのはあまりに危険なのだ。


 しかし、古橋がなまじ2700m級の山に登頂した経験を持っていること、せっかく来たのだから登らねばという義務感と意地が、悪い方向へ作用していた。


(富士登山が厳しいのは当然のこと。この程度で音を上げてたまるか)


 単独行の古橋を咎める者はいない。このまま進めば取り返しのつかない事態が発生することは火を見るよりも明らか!


 だがしかし、その時。

 彼は見た。重い足取りの自分を颯爽と追い抜いていく、一人の登山者を。

 あろうことか照明器具も持たず、背にナップザックすら背負っていない。それどころか、ブレザーとミニスカートという学生服姿の女子を!

 誰あろう……竜魔神姫トンデモナイゼヴァルアリスである! 


 古橋は慄いた。自身の登山に対する知識、常識がガラガラと崩れていくのを感じた。

 しかし皮肉にも、そのためにかえって正常な判断力を取り戻しつつあった。

 狂気に囚われかけた者が、より強い狂気的光景に出会うことで覚醒する……往々にしてそのような事態は発生するものなのだ。


 正気に戻った古橋は、ともかくこの無謀な登山者に一言注意を促さねばという義務感に駆られた。


「き、君ィ!」

「何か用か。私は忙しいのだが」


 磨き抜かれた宝玉のごとき美貌、そして迷惑そうな返事に、古橋は動揺した。

 富士登山の最中なのだとしたら、それは忙しかろう。しかしそこで引き下がるわけにもいかない。


「そ、その格好は何だ!」

「学生服を知らないのか……?」


 何故自分が哀れみの目で見られなければならないのかと混乱しながらも、古橋は改めてこの女子高生にかけるべき言葉を探した。

 富士山に限らず、山に登るということは死の危険と隣り合わせなのだ。

 綿密に計画を立て、事前の準備を整え、体調を万全に保ち、時には決断的に引き返す覚悟を持たなくてはならない。

 学校帰りにカラオケに寄るような気軽さで登るものではないのだ。

 そこまで考えたところで、古橋はハッとした。


「まさか、私にそれを気づかせるために……!」

「……何の話だ?」

「あ……ありがとうございました!」


 突然感謝の言葉と共に深々と頭を下げる古橋に対し、ヴァルアリスは首をかしげながら登頂を再開した。


 その後ろ姿を眺める古橋は、静かに下山を決意していた。

 古橋がかけようとした言葉は、そのまま自分に適用すべき言葉。

 少女の人間離れした美しさから考えても、何か超自然的な存在が無謀な行動に走る自分に対して警告を発したのだと、古橋はそう解釈してしまっていた。

 これこそ、竜魔神姫トンデモナイゼがただそこにあるという事実だけで、一人の男を救った瞬間なのだった……!



 勝手に色々悟った男を置き去りにし、山頂を目指すヴァルアリスの足取りは軽やかである。


(富士山という山の由来……いずれが真の由来か、根源智慧接触ググルウィキダスを用いても特定はできなかったが、この山が人類にとって特別な存在であることは疑いようもない事実)


 確かに富士山という山名の由来は諸説ある。

 不死の霊薬を燃やしたという伝説から「不死山」になったという説。

 尽きることのないその巨大さを「不尽山」と称したという説。

 つわものが富む、という意味で「富士山」と呼ばれるようになった説。

 いずれにせよ伝説的な逸話が絡んだ命名であり、この山の特殊性を物語っている。


 魔法を使いさえすれば、一瞬にしてその山頂にたどり着くことも可能だろう。しかし、ヴァルアリスはあえてこの山を徒歩にて制覇する。

 人類に可能なことは当然魔族の姫たる自分にも可能であり、魔族が人類に劣っている部分など何一つないという証明である。

 精神的にも物理的にも人類にマウントを取る気概なのだ。

 富士山はあくまで日本最高峰であり、世界最高峰ではないことについては、今は触れずにおこう。



 やがてヴァルアリスが山頂へたどり着いた瞬間、それは折しも御来光と呼ばれる、雲上の日の出を拝めるタイミングと一致していた。

 目が眩むほどに力強い輝きが、色を変えながら幾重にも重なっている。

 それは遠く地平線を染め上げながら、少しずつ、少しずつ上昇していくのだ。 


「おお……」


 太陽という恒星に特別な思い入れのないヴァルアリスにとってさえ、不思議と心の動かされる光景であった。

 同じく御来光のありがたみに心から感動していた登山者たちは、富士の頂上に制服姿の女子高生が居るという異常事態に誰一人気が付くことはなかった。

 そのため、無用な恐慌パニックは避けられたのだ。

 なんという幸運な偶然だろう!


(良いものを見た。思いがけず、私はこの経験によってさらなる進化を遂げたと言えよう……)


 知的生命体の成長に重要なのは、必ずしも超常的な体験ではない。日々の体験から何を得るか、である。

 富士山頂から日の出を見たヴァルアリスの精神は冴え渡り、雑念や煩悩が欠片も存在しない。

 今やヴァルアリスは人類根絶という目的を確実に遂行する超越的神話存在と化したのだ!


「いや本当に、これを食べないと損だよ」


 不意に聞こえてきた登山者の会話に、ヴァルアリスの耳がピクリと反応した。


「そんなに違うもんスかねえ」

「まあ、騙されたと思って行ってみてよ」


 ヴァルアリスに背を向ける二人の登山者は、何やらガイドブックのようなものを眺めながら会話をしている。

 ヴァルアリスはその背後でつま先立ちになったが、手元がよく見えない。


「いや、普通にどこにでもあるでしょ?」

「それが違うんだって。本当に美味しいから」


(な、何がそんなに美味しいというのだ!? 主語を言え、主語を!)


 ヴァルアリスはぴょんぴょんとその場でジャンプを繰り返した。

 なまじ登山者二人の体格が良いために、それでも手元は見えない。忌むべき筋肉の壁!


(そうまでして秘匿するとは……しかし、この竜魔神姫トンデモナイゼの追及から逃れられると思うな!)


 ヴァルアリスは無詠唱ナンモイワン覇空式ウイトルナ風精飛身ジャッカンナを唱え、40cmほど浮遊して、登山者たちの手元を後ろから覗き込んだ。

 案の定、彼らはグルメスポットを紹介する小型のガイドブックを開いている。


(ふっ……こんなちっぽけなものが、それほど美味だというのか……?)


 開かれたページの内容を確認して思わずほくそ笑み、ヴァルアリスは厳かに着地した。


(いいだろう。霊峰にて更なる力を得たこのヴァルアリスが、さっそく人類の美食を試してやるとしよう。光栄に思うがいい……!)


「あ、でも行くなら早めの時間の方がいいよ。お昼時は混むから」

「まじスかぁ。降りてからじゃ間に合わないですかね」


 登山者たちの会話を耳にしたヴァルアリスは、やや急ぎ足で下山を開始した!

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