第7話 台東区浅草のラーメンライス(後)
噛みちぎった麺の切れ端がぼたぼたとスープに落ちていく。この一口で、ヴァルアリスはラーメンの持つ構造的欠陥を把握したのだ。
(この料理……箸で食べるにはあまりに不向き!)
長く柔らかい麺を箸で持ち上げ、齧って食べると、千切れた部分が下に落ちてしまうのである。スープがはねるし、見た目も格好悪いし、面倒くさい。
この食べにくさを差し引けば、味がどうあれ評価はマイナス。脳内シミュレーションに狂いなし。このまま人類の終焉へまっしぐら!
ヴァルアリスが拳を握って小さなガッツポーズを取ったその時であった。
ずぞぞぞっ、と耳慣れない音が響き、ヴァルアリスはそちらに注意を向けた。
年配の男性が麺を吸い込むようにして音を出しながら食べている。
呆気にとられていると、逆側からもズルズル音がする。慌てて首を回して見やると、そちらでもやはり口をつけた麺をそのまま吸って食べているのである。
(えっ? 何をしている?)
驚くのも無理はない。麺を啜る、という動作はあらゆる文化圏に存在するわけではない。少なくともヴァルアリスは、魔界では見たことがなかった。
しかし、気がつけば店内の誰もがそのようにしてラーメンを食べている。別にラーメンを啜って食べなければいけないという決まりは無いのだが、ヴァルアリスには判断のつかない事であった。
(もしかしてラーメンとはあのように食べるものなのか?)
店を調べ、メニューを調べ、使う道具まで調べたというのに、食べ方が特殊とは知らなかった。このままラーメンの食べ方を知らずに戦いを終わらせて、完全なる勝利とは言えまい。
意を決したヴァルアリスは再び麺を
(あ、おいし)
思わず素で驚いてしまった。
宝生軒の麺は加水率高めの中太麺。それも、毎日店で作っている自家製麺である。啜ればツルツルと口に入り、然るのちに噛むことで、シコシコした歯ごたえと小麦の風味いっぱいの味わいが楽しめるというわけである。元からスープもよく馴染むが、啜ることで麺と一緒に口に入るのがポイントなのだ。
ヴァルアリスはしばし夢中になってちゅるちゅると麺を啜った。
チャーシューを一枚かじってみると、とろけるような食感の脂身と、しっかりした肉の旨みのハイブリッド。
メンマはシャキシャキした食感が楽しいし、スープはネギの乗ったところをレンゲですくって飲むと最高に美味い。
「じゃなくて!」
三分の一ほど食べ進めたところでヴァルアリスはようやく自分にツッコんだ。もはや当初のロードマップは崩壊している。
だというに、ヴァルアリスは手つかずのまま鎮座している煮卵が気になって仕方がない。
(せっかく頼んだのだし、一口くらいは)
箸で二つに割ると、煮卵の中身はとろりと半熟だった。茶色く色付いた白身部分はタレの味が染みて、黄味はねっとり濃厚で幸せな味がして、麺とスープを啜るのがさらに進んで……
「オアアア!?」
ヴァルアリスは再度我に返り、叫び声を上げた。気がつけばもう三分の二ほど食べ進めている。
(い……一旦落ち着こう!)
落ち着くために、レンゲでスープをすくって飲む。その勢いでもう一枚のチャーシューを齧り、メンマと麺を交互に口に放り込む。
たっぷりスープを吸った海苔を麺と一緒に食べるのもまた良いものだ。
(我ながらこの食べ方は最高なのではないか……?)
ヴァルアリスは満足げに誇るが、これはラーメンを食べる者の実に八割以上が陥る典型的な状態であった。
ものを食べる時、人はそれぞれに独自のリズムを持つ。ラーメンは特にそれが顕著である。海苔はふやけないうちに食べたい者もいるし、真っ先にチャーシューを平らげる者もいる。
己に一番合うリズムを選択するのは、己である。これは当たり前なのである。
箸で掴める麺がなくなってきた辺りで、ヴァルアリスは愕然とした。
結局ラーメンをほぼ完食しようとしている自分にようやく気がついたのと、この幸福な時間がもう終わってしまうこと、どちらにショックを受けているのか自分でもよく分からない。
愕然としながらナルトを咀嚼し、スープを一口すくって飲む。
(いけない! このパターンは!)
スープを一口すくって飲む。ヴァルアリスは、レンゲを持つ左手を右手で掴み、必死に押しとどめようとする。
「し、鎮まれ……我が左手よ!」
スープを一口すくって飲む。スープを飲む手が……止まらない!
無理からぬ事であった。
魔界には、ダシを取るという習慣が無い。スープを作るくらいの事はするが、獣骨や乾物を煮出してエキスを抽出するような手間をかけない。野菜を煮て、いいエキスが出たところで煮汁を全部捨て、パッサパサになった残りを食べるようなことを平然とやる。
そんな環境で育ったならば旨味に対する反応も鈍くなりそうなものだが、幸か不幸かヴァルアリスの味覚は鋭敏であり、出汁の効いたスープの虜になってしまったのである。
宝生軒のラーメンスープは、醬油味の鶏ガラベース。野菜を加えてじっくり丁寧に鶏ガラを煮出し、旨味を引き出す。
さらにそこへ北海道産の利尻昆布、本枯節、サバ節、ウルメイワシ節を絶妙なバランスでブレンドした魚介スープを合わせる事で、優しいながらも奥深い味に仕上げているのである。
二代目店主・沢慶彦が完成させたWスープであった。
(止めろ……これ以上は、あれだ……! 体に悪いぞ!)
塩分と油分たっぷりのスープ。たしかに、全部飲んだりしたら体によかろうはずもない。
とはいえ、健康診断で注意を受けている中年ならともかく、全くの健康体、そもそも魔族であるヴァルアリスがそのような事を気にする必要性は薄い。薄いが、もはや藁をも掴む心境なのである!
(もうやめた方がいい! 麺も無いし! スープだけ飲んでもしょっぱい!)
不意に卓上に影が生じ、ヴァルアリスは顔を上げた。そこには店主・沢嘉人が立っていた。
まさか、人間風情に虚を突かれるとは。
「な、何用だ」
返答はなく、ただヴァルアリスの前にコトリと茶碗が置かれた。
茶碗の中には、ほかほかと湯気を立てる白いごはん。メニューで言うならば、100円の小ライスであった。
「サービス」
その一言だけを残し、店主・沢嘉人は再び厨房へと戻って行く。後に残されたヴァルアリスは唖然としたまま小ライスを見つめていた。
店側が客の食事リズムに干渉するのは、本来ならばあり得ざるべきことである。
だがしかし、この店においてはその限りではない。何故ならば、店主・沢嘉人が……魔眼の持ち主だからである。
宝生軒の初代店主は、この店を築いた。二代目店主はその精神を受け継ぎつつ、至高のスープを完成させ、製麺機を導入した。
ならば、三代目店主である自分には何が出来るか。沢嘉人は重圧の中で悩み、苦しみ、切磋琢磨を重ねた。その果てに、誇るべき一つの武器を手に入れたのだ。
観察眼であった。自らこだわりの素材を吟味し、客の反応をそれと知られずに伺うことで高められたその観察眼の鋭さは、魔眼と呼ぶべき領域に到達したのである!
魔眼は時に、ラーメンを食す客以上に客が求めるものを明確に導き出す!故に、ヴァルアリスの舌が小ライスを欲していることを看破せしめたのである!
周囲の常連客も、このサービスに対し不平不満を口にしたりはしない。店長が食べさせるべきだと判断したならば、そうするべきなのだ。暗黙の了解!
躊躇うヴァルアリスは当て所なく視線を宙に彷徨わせる。不意に、その視線は厨房に戻った店主・沢嘉人と交錯した。
沢は……無言で親指を立てた。
「行け」と。
もはや迷いは消えた。ヴァルアリスはご飯をスープの中へ投入し、レンゲですくい、がつがつと食らう。
(せ……正解……!)
何が正解なのか分からないが、とにかく正解としか言いようのない味わいであった。
麺は炭水化物、飯もまた炭水化物。素材は違えどスープとの相性は良好。
スープでほぐれた白飯の粒、一粒一粒でさえ尊いその味わいが、まるでヴァルアリス自身が放つ
そこへ、うっかり存在を忘れていた煮卵の残り半分が登場!なんと嬉しいサプライズか。否、あるいはこの喜びのために意図的に記憶から消去していた可能性も否定はできない。
時折スープの底に沈んでいたネギや麺の切れ端もまた、舌を喜ばせる。
もはや見栄も外聞もなく、ヴァルアリスは丼を傾けて口に当て、一気にスープご飯を掻き込んだ!
空になった丼の底からは双喜の印が姿を現した。二つ並んだ『喜』の文字。英語で言えばDouble Happiness。まさに、今しがたラーメンを食べ終えたヴァルアリスの心境そのものを意味する言葉であった。
ヴァルアリスは肩で息をしながら髪留めのゴムを外した。
冷静に考えれば、何も食べ残しを持ち帰らなければいけないルールはない。もう一度ラーメンを頼み、それを封印して持ち帰ればいい。
(……持ち帰る?)
ヴァルアリスの背筋に悪寒が走った。
(馬鹿な。私はこんな恐ろしいものを魔界へ持ち込むつもりなのか?)
その価値が露見すれば、やがて誰もがこのスープを求めて争う事となるだろう。
その果てに何が起こるかは想像に難くない。内乱。クーデター。全面戦争……!
他ならないヴァルアリス自身の行動が、魔界を滅ぼす原因となるのだ!
(これは魔界を守る為の撤退……戦略的判断……!)
「七番テーブルのお客さん、いつのまに帰ったんだろ」
アルバイトの青年が首をかしげる。
厨房では、沢嘉人が無言で麺の湯切りに勤しんでいた。
与えられた資産に慢心せず、重圧に耐え、飽くなき追求を続けた三代目の心意気が、魔界の至宝を貫く刃となったのである。
例えその事を聞かされたとしても、彼にとってはさほど意味もないのだろう。これからもただひたすらに美味いラーメンを作り続けるのだろう。
いつか四代目にそのポジションを譲る、その日まで……!
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